月音(つきのね)∞風音(カヂヌウトゥ)

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大高の猩々@氷上姉子神社例祭

古代の伊勢湾の年魚市潟(あゆちがた)で、熱田の岬から松巨嶋を経由し、船で往き来していた火上山。
山頂の元宮は、氷上姉子(ひかみあねご)こと宮簀姫(みやすひめ)の館跡。
火高(ほだか)火上(ひかみ)が、後の世に大高氷上となる。


10月1日は、大高の猩々氷上姉子神社の例祭でした。
いよいよ秋祭りの猩々シーズンが到来。
ついに、あの憧れの猩々を、本場の祭り空間でご対面し、あのドキドキ感を初体験することができました。
話せば長い猩々との出会い。
岐阜の山車からくりや、能の演目ではお馴染みの。
それが年魚市潟の熱田や笠寺や鳴海の方に来ると看板があったり噂にきく、ゆるキャラ並みの親近感なのにおそがい(尾張弁で恐ろしい)興味津々な出で立ち。
いったいどんなんかはいろいろ調べたりもしたし、昨年はあいちトリエンナーレの一環で猩々コレクティブに参加したりと、じわじわと実際のリアル猩々に近づいてきたのと同時に、コロナで3年連続中止の狭間にいたのが、今年は「時は来た 大高祭り 復活の儀」ときけば、なんとしても行くしかない。

午前中は各町内から花車を曳いて、辻の秋葉社に大集合した後、午後から次々と宮入り。
その間、笛に太鼓の祭り囃子の神楽が鳴り響き、大高の町全体のエネルギーを高めながら練り歩く。
猩々の赤も、魔除けだし。
叩いたり追いかけるのも、魔を祓う大切な役目。
そこを、各町内のカミさまを載せて、大集結しているのだ。
この祭りで巡行する山車の花車は、町内により1つか2つ、しかも2種類あるようで、ホコとかダシと呼んでましたが、正式には傘鉾車松車というそうです。
傘鉾車は文字通り、和傘にぐるっと垂れ幕が巻かれてました。
松車は文字通り、松が立ってます。
どう見ても、祇園山鉾巡行からきてるのでしょう。
鉾が傘鉾で、山が松車。
しかし、祇園牛頭天王の祭り。
なぜに熱田でこのような祭り形態をとってるのか。
この地ならではの大人形の猩々が、個性的で豊かな文化の多様性を物語る、土着の祭りと掛け合わさった陸の東海道と海からのミックスカルチャーなのでしょう。


わたしはてっきり、猩々がメインの祭りと思ってましたが、その実は脇役的なサルタヒコや天狗のような役割をしてる感じでした。
先を割った竹の棒で子供の尻を叩くとその年は病気しないとか、全速力で追っかけるのも、邪気を追い祓い、魔除けや厄祓いとなってる。
この叩く棒をバレンと呼んでいた。
子供たちは屋台で買うのか、みんな厚紙製のハリセンを持って奇襲攻撃。
猩々にケンカを売り、いやちょっかいを出し、叩かれたり追いかけてもらうのだ。


本殿前の境内を、ずらりと並ぶ。
猩々が祓って、花車が回るのも意味があり、賑やかな境内の裏で、本殿では粛々と神事が執り行われる。
そして一番先頭で入った新町が鳥居を出たので、これで終わりかと思いきや、残った町内は静止したまま後続せず、長い間静かに何かを待つのでした。
しばらくすると、また新町の花車が戻ってきた。
一緒に着いていけばよかったけど、様子からすると元宮まで行ってぐるっと回ってきたようだ。
こうして祭りは無事に終わり、神幸として土地のカミさまと渡行し、またそれぞれの町内へ帰っていきました。
またそこで、それぞれおおいに盛り上がったことでしょうね。
それにしてもいい祭りだ。
さて、次は笠寺の猩々がわたしを呼んでるような気がしてきた。

 
大高の猩々@氷上姉子神社例祭
2023年10月1日(日)

例祭 十月第一日曜日 十四時
古くは神輿が元宮まで神幸したり、氏子中より馬塔を奉ったといわれています。現在は各字(あざ)より花車をひき出し、大高町全域を練り歩いて境内に集合し、祭典に参加します大高町は終日祭り一色で賑わいます。
~氷上姉子神社の栞より~
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

2022 天道祭の鬼祭り@入鹿村の天頭社(天道宮神明社)

これは昨秋の、犬山の天道祭鬼祭り
今年は、大高の猩々と重なったため行けませんでしたが、入鹿村が水の底に沈む前から伝わる非常に興味深い祭りです。
今回初めて、年魚市潟(あゆちがた)の猩々を見てはっきりしましたが、この鬼と猩々は、まるっきり要素は同じ、同じルーツの祭りです。

2022 天道祭の鬼祭り@入鹿村の天頭社(天道宮神明社


www.youtube.com

2022年10月2日(日)

犬山の入鹿池に沈んだ入鹿村
その住民と社寺が移り住んだ #前原 に、天道宮神明社がある。
その天道祭が、鬼祭りとして残っており、3年ぶりに行われました。
#赤鬼 の面をつけてますが、その動きや風貌は鬼というより、名古屋南にある笠寺や有松や鳴海辺りの祭りに出没する猩々のようで、赤くて長い髪が全身を覆う姿もそっくりであり、手に持つ #榊の枝 で子供たちを叩いたり撫でたりするところはまた、恵那福岡(植苗木)の榊山神社の叩き祭りにも通ずるものがある。
その後続に獅子舞がいて、獅子頭が子供たちの頭を噛むという要素もある。
参道の鳥居を出発した神輿渡御で、どちらも先導しながら邪気を祓い、笛や太鼓の祭り囃子に乗ってさらに後続の神輿を誘導し、最後に本殿を右回りに三周して終わりますが、そのまま赤鬼だけが山の神へ挨拶に行く。
ということから、赤鬼の本質が山の神の化身であることがわかる。
とにかく、祭りの意味ややっていることはわかるけど、この近隣や周辺の祭りを見渡してみてもこのような祭りは何処にもないから不思議というか謎というか、そのルーツをずっと追っています。


ここの祭りで独特なのところというかユニークなのは、神輿渡御の先頭にサルタヒコや天狗代わりに赤鬼と共に榊の枝を持った斎主が同じ歩調でゆったり歩く中、小さな子供がいると赤鬼は榊で頭を撫で、つづく獅子頭が頭を噛んで、無病息災で健やかに過ごせるご利益を授けます。
ところが、イタズラ盛りの少年たちは赤鬼の後ろをつけてちょっかいをかけたり、あちこちから待ち伏せて「あかーあかー」とはやしたて、大人しい赤鬼を煽ります。
すると急に赤鬼が走り出し、子供たちも蜘蛛の子を散らしたように全速力で逃げ回り、追い詰められると嬉しそうに榊の枝で叩かれます。
このようなほのぼのとした祭りが、いつまでもつづいてほしいものですが、年々祭りは高齢化しながら、子供たちの姿も少なくなっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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秋分の笠置山と聖なるツルギの田原神社

樹木の幹を纏う樹皮が剥がれたかのような。
カブトガニとか殻を持った甲殻類のような。
どこか宇宙的な、不思議でパワフルな巨石。
これも、山頂の巨大岩盤に鎮座する田原神社の数ある巨石群のひとつ。

 

何度も取り上げてるけど、田原神社といえば本殿を守る、この宇宙狛犬

 

田原神社の鳥居越しにそびえる、笠置山
この日は秋分の日。
つまり、真西に向いてるってこと。
この地は、真っ直ぐ東西のレイラインに並ぶ聖地のひとつ。
拝む方向にある本殿は、真東から昇る春分秋分の御来光に向いているということだ。

 

前にアップした、秋分の日の写真。

t.coこれは田原神社本殿の前の巨大岩盤に、いつの時代にか祀られたツルギの跡。
この秋分の日も、真西の笠置山に沈むオレンジビームの夕陽に照らされていた。
もしここに、聖なるツルギが置かれていたらどれほど輝いて見えたことでしょう。

 

秋分の翌日、また田原神社の前を通りかかったら、幟が上がってた。
前日はひっそり人っ子一人いない神社で祭りの気配も感じなかったのにびっくり。
今年は秋分が土曜で、第4日曜を祭礼にしてるのだろうか。
詳しいことをきけなかったけど、古代から秋分の太陽に感謝してきた末裔の祭りなんでしょうね。

 

 

 

 

 

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月遅れのお盆と重なる8月15日は終戦記念日改め休戦記念日に!

めんどくさいやつですが、わたしはこの終戦記念日というのがピンと来ず、たった一日で思うようなことではなく、戦後ずっと毎日思えばいいことだと。
アースデイとか、母の日だって、毎日でいいのと同じで。
で、この終戦という言葉。
為政者にとってとても都合いいものだから、けして敗戦とは言わない。
だから、未だにあの戦争が何だったのかを顧みず、何の検証もされず終わったことにしたいのです。

広島の原爆投下が8月6日。
長崎の原爆投下が8月9日。
ポツダム宣言を受諾したのは、8月14日です。

では、8月15日を何と呼ぶか。
実は、終戦記念日でもなく、敗戦記念日でもありません。
あえていうなら、休戦記念日でしょう。
この日に何があったかご存知ですよね、みなさん。
そう、玉音放送天皇陛下がはじめて国民に語りかけました。
なんと言ったかよく聴いてください。
武器を捨て戦いを終えるように呼びかけただけですよ。
宣戦布告に対して、休戦布告した日なんです。
対するアメリカは、9月2日を戦勝記念日としています。
1945年9月2日に、日本の降伏調印式は東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われたのです。
敗戦記念日となるのは、この日でしょう。

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つまり、8月15日は休戦記念日と呼ぶべきところ、終戦記念日という言葉でまた国民を欺しながら、戦前の国家体制は変わらないまま毎年この日を迎え、一時的な休戦という状態のまま次の戦争の戦前を生きている。
また同じ過ちを犯す準備に勤しんでるのが現状です。
そりゃあ、憲法改正したいでしょう。
しなくても、憲法解釈なんて無茶苦茶でここまで来てるんだから。

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そもそも終戦記念日ってゆう言葉がいつから使われたのかご存知ですか。
つい最近ですよ。
1945年8月15日の玉音放送では、戦いを終えるように告げた停戦、つまり休戦宣言。
これ以降、天皇も国も、日本が負けた敗戦という言葉もなく、終戦したとは一言も公言してない。
もししてたなら教えてください。
訂正しますので。

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では、この日を終戦記念日としたのはいつから?
国は、1963年8月15日に政府主催の全国戦没者追悼式を武道館でしはじめ、戦後36年も経った1982年になって「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定めた。
それだけです。
ただ新聞テレビが、この日をいつからか終戦記念日と伝えつづけてる。
こうして振り返ると、国民自ら戦争などしたくなくとも、国が強制しなくとも、戦前の新聞ラジオが戦争へ向かうように煽りまくり、国民感情は恐怖からくる自衛の心理が働き、一気に戦争ムードへと熱狂したため、政府も動かざるを得なくなったという経緯があることも事実。
そんなメディアが、自らの悪行を反省するどころか、はなから真実を伝える機関ではないので、戦後はこの日を終戦と煽ってるにすぎない。

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小田井の星神社はやはりカガセオの三つ星だった

名古屋市西区上小田井にある星神社で、本日、七夕祭がありました。
毎年8月7日に行われるのは、月遅れの旧七夕だからです。
そして、庄内川を挟んだ対岸の多奈波太神社とセットとなる、尾張独自の七夕伝説が語り継がれてます。

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不思議なのは、由緒に、主祭神大己貴命大国主命となってること。
合祀として、香香男神牽牛星織女星の名が見えます。
なんか変ですよね。
いつからか星神カガセオに、七夕の二神が重なったのでしょうか。
また、式内社坂庭神社でもあることも奇妙というか。
古くから坂庭星社とも呼ばれ、土壇をつくって星祭が行われてきたともいう。
大神神社の祭神は、大物主神
配祀されている大物主神大己貴命少彦名命と共に国づくりをしてきた。
酒造りの神でもある。
だから、坂庭の祭神が大己貴命ということでしょう。
それでも星神社を名乗り、天香香男神を祀るには何か理由があったはずなのにさっぱり見えてこない。
だから、ずいぶん前に数回来てみても何もわからずだったので長らく保留にしておきました。
この祭りへも、いつも平日開催なので行けるタイミングがなかなかなく、まぁいいかとなっていた。
ところが、魂の妹である実杷ちゃんから行くよメッセージが来て、最近の台風みたいに紆余曲折して、ご縁つながりとなったマヒロさんと行くことに。
どうやらそれぞれみなお役目があり、今日はその確認のためだったようで。
そんなこんながあって。

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やってました。
きらびやかなLEDの星祭。
一地方の七夕祭として、これはこれでいいのです。
お詣りして、神紋が七つ星の七曜紋だということに再度注目。
おやっ、ここはもともと妙見信仰だったのか。
だけど、別の神紋は三つ星紋になっとるやん。
オリオン座の三つ星だ。
ますます謎は深まるが、一気に近づいてきた感じ。
今までは、来たといっても、普段は無人の神社。
表向きに書いてある由緒からはさっぱりだったのが、社務所宮司さんから直接お話を伺うことができた。
神紋が七曜紋で、三つ星紋はこの星祭を現していると。
表向きの七夕の絵には牽牛星織女星の二人が描かれてるだけだけど、本当はこの真ん中にもう一人カミさまがいて、それが天香香男神だと。
それで、真ん中にカガセオが描かれた短冊を見せてくれた。
なるほど、やっぱりこうやって裏側に隠しながら守り、大切に祀ってきたわけか。

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オリオン座の三つ星で間違いないと思うけど、もうひとつ閃いたのは夏の大三角形
天の川を挟んで彦星こと牽牛星アルタイルと、織姫こと織女星ベガに、真ん中となる天の川の中にある三つ目の星がデネブだ。
この絵は、もしかしたらカガセオがデネブであることを意味してるのかもしれない。

 

東国のミカボシカガセオ勢力は、尾張庄内川一帯にまで広がっていた。
そのルートは熱田のヤマトタケルとも重なる、という直感も再確認した感じ。
富士山の東麓辺りが本拠地だったミカボシカガセオ勢力は、関東まで後退しつつ滅ぼされたかのように見えて、実はその後も子孫が生き残っている。
古事記にはなく日本書紀にのみ記される天香香背男は星神で悪神のため、倭文神建葉槌によって討伐される。
その場所が、茨城日立の大甕神社
もしかしたら、建葉槌と共に天津甕星が祀られる大甕神社と同じような意味で、討伐した側とされた側が祀られたということなのか。
倭文(しとり)とは、機織りと大きく関係する織物のこと。
それで、七夕伝説の二神と結びつけてあのような祀り方をしてるかもしれない。
いずれにしても、この地ではもともとオリオン座の三つ星としてカガセオの星信仰が、かなり古くからあったということなのでしょう。

ここは七夕色が強すぎてちょっと違うかな、と危うく眼中から外しかかってましたが、保留にしておいてよかった。
まさしくここもカガセオの星信仰の名残。
そして、今日という日にご縁のある仲間が集う場が整えられ、祭りの日にここへ来れるよう導いてくれた大いなる存在に感謝です。

 

 

 

 

 

電磁波対策済みのスマートメーターに交換した日

ワクチンは任意だったのに、強制かのように8割もの国民が打ちましたが、わたしは当然の権利として拒否しました。
マイナカードもスマートメーターも任意ならまだしも、強制した時点で人権侵害。
便利かどうかなんてレベルでなく、国の監視ツールなだけだから。
それで勝手に法律つくって、電力会社は犬だから自分の顧客に対しても強制の姿勢で取替予告の通知を郵送してきた。
そこに書いてある問合せ先にすぐに連絡して、拒否する意思を伝え、逃げ道を探るための交渉へ。
その返答は決まり文句のみ。
電話担当はマニュアル通り、弊社の問題でなく国の命令だからの一点張りに、世界で電磁波問題となってること、電磁波アレルギーで拒否することを伝える。
すると、ちょっと待ってくださいとなり、担当者が変わり、実はそうした話をきいているので対応すると態度が一転した。
電力会社により扱う機器メーカーが違うため、通信用の配線を引っこ抜くだけで電磁波対策できるスマートメーターもあるが、中部電力では内蔵タイプの一体型しかないため、現在、取り外せるような機器に改良中とのこと。
それまでの暫定処置として、延命アナログメーターに取り替え、次の交換時期までに電磁波対策できるスマートメーターができたら連絡すると。

ここまでが2年前の話。
https://fuhgetsu.hatenablog.com/entry/2021/10/01/232022

以来、2年ものあいだ何の音沙汰もなく、平成37年=2025年の使用期限までは大丈夫かと思ってた。
そしたら先日、電磁波対策できるスマートメーターができたので交換に伺いますとの連絡が来た。
ちょっと早い気がしたけど、国の命令で交換の期限は来年の2024年までに終わらなければならないらしく、順次まわっているためこのタイミングになったと。
あの時の担当者は忘れずに覚えてて、ちゃんと対応してくれたのでこちらも断る理由は無い。
それならばと、また立会で確認しながら作業するということで、それが今日だった。

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作業は30分かけて丁寧かつ手際よく。
向こうの配慮で、無停電のやり方で。
停電ありだと作業も半分の時間ですむのに。
停電すると電化製品の内蔵時計がリセットされたりあとあと面倒くさいからと、わざわざ気遣って面倒くさい取替方法で対応してくれてるのだ。
なんて顧客思いな。
国からの命令として最低限やらなければならないことだけして、対応できうるかぎりは実際の顧客を最優先する姿勢に感動した。
わたしが相当のクレーマーだから荒立てないように、っていうブラックリストの可能性もあるが。
やっぱり問題を問題として伝えることは重要なことだな、と思った。
国や企業が悪くても、職場の中にはちゃんといるんですよね、こういう優しい人たちがいっぱい。
スマートメーターへ取り替え完了後、最初に開通するときだけ通信端末を取り付けて操作し、終わったら取り外して帰りますと。
その一部始終を見せてくれた。

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ただ、毎月の定期検査みたいなときに係のものが来て、その都度、この通信端末を挿してデータ吸い上げたらまた外して帰ると説明してくれた。
通信さえしなければ、電磁波は出ない。
常時監視もできない。
アレルギーに悩むこともない。

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ただ、いちいち端末を持ってきて、また挿して、通信処理して、また引っこ抜くという手間を、電力会社に押しつけてしまったようで罪悪感もあるけど。
みんながみんな黙ってたら、電力会社も問題ないと思い込んで、わたしのように言えない弱者に対しても強制してしまうことになる。
悪いのは国だ、許しておくれ。
いや、悪いのは選挙で選んだ国民なんだけど。
こうやって少しずつでも気づく人が増えれば、世の中少しはましになっていくはずだから。

 

 

 

 

 

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こどもたちと共に

こども子ども子供か。
わたしはいつもこの漢字を書くとき普通に子供と書きますが、いつからか供の字はお供え物とかお供(とも)させるという差別的な意味は良くないので子どもにしようとなり、未だに子供を使うとクレームする人がいるようですが、そんなことどうでもいいのにと思っちゃいます。

実は「こども」を漢字表記するようにったのは江戸時代からで、子共子等、子供、児供、などと書かれ、決まりはなく、漢字は宛字にすぎないため、供とすることに差別的な意味は無かったようです。
また、共(とも)は二人ともや者どもと同じ複数形で子+どもであるという説もあるが、こどもという言葉が先にあり、漢字は後付けの宛字と考えられる。

核家族化した現代では、子供は両親の所有物と成り果て、その発想から大人のお供とかお供え物と直結されてしまいがちですが。
漢字の意味合いとしては、やはり子共と書いた方がいいかもしれない。
ちょっと昔まであった大家族では兄弟姉妹や祖父母が子育てしたり、もっと古くからある村落共同体ではみんなで育てていたから、子と共にあるという意味で、子共(こども)とするのが一番近い意味の漢字だったのではないかと思う。

 

野馬(かげろふ)に
子共(こども)あそばす
狐(きつね)哉(かな)

野沢凡兆

 

 

 

 

 

諸行無常の現世に生きるわたしたちもまた空っぽのセミの脱け殻である

セミの脱け殻を、空蝉(うつせみ)とも呼ぶ。
虚蝉とも書き、晩夏の季語になってます。
生まれて初めて地上に出て、太陽の光を浴びたセミの蛹は、そこで生と死を超えた完全変態のメタモルフォーゼをし、まったく違う世界を生きるために翅を持ち、空をも飛べる身体へと生まれ変わる。

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街中でも自然とは切り離されてないことを知らせるセミの鳴き声。
途方もなく長い年月、この目には見えない地面の中にいったいどれだけの命が隠れ潜んでるのか。
人間だけのコンクリに覆われた都会で、僅かな地面のある街路樹や公園の地下に、それでも命はつづいているのだ。

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ウツセミとは、古語のウツシオミ(現し臣)やウツソミ(現し身)が訛った言葉で、この「現世に生きてる人間」のことを指していたのだ。
つまり、現世のこと。
現臣(うつしおみ)が現身(うつしみ/うつそみ)となり、空蝉(うつせみ)となった。
セミの脱け殻は、空っぽである。
現世もまた、無常である。
儚いこの世に、常はなし。
そんな、とても深い意味のある言の葉なのです。

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20230722 原一男監督特集初日の水俣曼荼羅@シネマテーク

水俣曼荼羅
ドキュメンタリー映画である。
それも、原一男監督の。
そんじょそこらの映画なはずはない、小津安二郎に匹敵する本物の作品である。

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しかしだ。
ものには限度ってもんがある。
6時間耐久レースの、普通の映画3本分という超大作の長尺作品。
朝うちを出て、今池まで行き、開始1時間前に着いて、オープンまで並んで当日券の整理券待ちして、昼前の11時から映画がはじまると、2時間おきに途中2回の休憩を挟んでも、見終わると夕方の17時だよ。
休憩といっても長蛇となるトイレで終わり。
スマホ見たり、食べてる暇もない。
人って、あまりに忙しいと、食べるかトイレかの2択の欲望しかなくなるってことがわかった。

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それでも観たかったのは、公開当時に見逃してるからというのもある。
まず、タイミング的にコロナ禍でありながら、2021年10月にシネコンで洋画の『MINAMATA』を観た。
海外ではまったく知られてなかった水俣病を、初めて世界に知らしめた点で大きな価値があった。
ちょうどその流れで、翌年の1月にミニシアターで『水俣曼荼羅』を観るつもりが、そのときの上映スケジュールではこちらの都合がつかず泣く泣くあきらめたという苦い思い出がある。
次の上映チャンスなどあるかないかもわからず、ない可能性の方が高いし、あったとしてもやはり半日以上の丸一日そのために予定を空けるタイミングは永久に来ないだろうとあきらめてたもんだから。
名古屋シネマテークの最後の企画、原一男監督特集の初日にふさわしい記念すべき一日にしたかった。
だから長時間の上映中ぜったい寝ないように前の晩は早く寝て、仕事ならあり得ないくらい朝ちゃんと起きて、行く前から気合い入れて、わたしとしては本気モードの命がけで観に行ったのだった。
それくらいたいしたことないという映画好きを自認したいし、映画人生のピークだった学生時代に通いはじめたこのシネマテークが、最後の企画を一週間上映して平日金曜には閉館してしまうから、わたしにとって本当に最後のシネマテークとなるかもしれない一日なのだ。
それくらい気合いが入って当たり前で、何のことはない。

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学生時代、その頃はまだ映画2本立てが当たり前で、寝ちゃうこともあるけど4〜5時間は平気だったし、何なら宿代わりに朝まで同じ映画を2度見3度見できたし。
映画祭ブームで朝から晩まで観てたこともあるけどそのときはプログラムの中から好きな時間だけ観ただけだから、最初っから最後までちゃんと連続6時間観たのは、やっぱり人生初だ。
それを覚悟はしてたものの、退屈せず、身体が痛くなったり、寝てしまったり、面白くなく飽きてしまって観るのも苦痛になることなく。
なんと最後の最後まで観る価値ありの連続で、あっという間に終わった。
時計も見てないから、6時間なんてたいしたことないじゃんとなった。
それが自分でも驚き。
それくらい中身の濃い、密度も高く、完成度の高い、いい作品だったという証拠です。

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完成度って、それドキュメンタリーじゃないじゃんと思われるかもしれないけど、何も作らず、ただ撮影するだけがドキュメンタリーだと思ったら大間違い。
作る側の意図に合わせるやらせは作為があるけど、原一男監督の作るという部分は、より真実の姿を浮き彫りにするためのきっかけ作りとしての誘導にすぎない。
批判する人はそこを勘違いしてるっていっつも思う。
わたしもドキュメンタリーにはやってはいけない加工と、どうしてもやらなければならない加工の仕方があると思ってる。
何にもしないのがドキュメンタリーなら、防犯カメラに映り込んだ意図も作為も何もない、ただの素っ気ない映像のみとなってしまう。
どんなに素のままを撮っても、カットしてつないで編集すればテレビだろうと映画だろうと作者の意図する都合のいい映像としていかようにも仕上げることができる。
ドキュメンタリーといえどテレビ局や商業映画の場合、完成のゴールが決まった状態で撮影がスタートし、そうなるような絵のみ撮るか、そうではなかった場合でもカットして編集してそうなるようなウルトラCのテクニックで真逆なことをしてるのに、あたかも真実であるかのように信じ込ませてる映像がほとんどだ。
そうじゃない。
もうそういう胡散臭い、有名で素晴らしい映画には辟易してる。

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わたしが原一男監督を大好きなのは、不器用そうに見えて粘り強い繊細な感性を持ち合わせてるから。
一切の妥協なく、被写体へのリスペクトがあり、完成後の上映がどうなるか、観客が観るに耐え得るかまで意識して、慎重かつ丁寧に撮影してることまで伝わってくる。
例えばカメラの回ってるときだけ笑顔でも、家に帰れば暗い顔してるかもしれない。
それを撮るには、撮影する側の人格が重要で、相手に信頼させ、心を開いて、すべてを許してもらえるところまで介入しないと。
たとえ偶然にもいい絵が撮れたとしてもそれはシーンのひとつであり、そこから先の突っ込んだ展開に持っていかなけりゃ誰でも撮れる。
シーンをつなぎ合わせ、この水俣での真実を伝えたいと思う大きなスパンのシーケンスとして描くなら、それが撮れるまで1年でも2年でも待ち、あるとき導かれるように訪れる瞬間を見逃さず、ようやくそのシーンを相手から引き出すことに成功する。
そんなこんなで完成するまで監督人生のほとんどを費やし、20年という歳月をかけてたったの6時間に納めたのだから天才としか言えず、回したカメラの時間からして6時間じゃ短すぎるって話。

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だから、あえて映画レビューとしての感想をわたしは書かない。
っていうか、書けない。
もちろん水俣病が題材の映画で、水俣病患者や被害者、寄り添う医者とその家族、さらにはその支援者、また敵対するチッソと国や県や司法という腐りきった政治色の強い巨悪の根源と、いろんな立場の人物が描写されつつ、そうした長い年月の出来事の時間軸を説明するため、度重なる裁判の判決による一喜一憂の浮き沈みをしつつも、結果的な不当判決や勝訴が重要ではないことがわかってくる。
写してるのは人の心だ。
人の哀感という描写がなければ、こうした公害ドキュメンタリーほど見てて息苦しく、失礼ながらも退屈すぎてつまらないものは無い。
それはいつもわたしたちが火事の対岸にいて、裁判で判決のニュースを見ることしかなく、実感も何も到底当事者の心など計り知れないからだ。
しかし、原一男監督はそれを見事に相手側からさらけ出させ、そこまで見せてもええんかいって批判や猛反発くらいそうなところまで掘り下げる。
きれい事で誤魔化さず、それっくらいの無茶しないと、本当にあるべき姿など見えてこない。
実はドキュメンタリー映画で泣いたのは、今回が初めてなんだ。
登場人物の魂まで透けて見えるくらい、あの笑顔、あの苦しみ、人生の深み、その迫力、どん底の中で、泥の中から咲く蓮の花のように美しい、やっぱり人間ってすごいなと思う。

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この映画のレビューに、水俣病に関するいろんな視点論点で語る人も多いかと思いますが、わたしはそこを一切端折ります。
水俣病に関してはいろんな資料があるし、そんなことは調べればいくらでも知ることができます。
ただ美しいお涙ちょうだいの感動ドラマで誤魔化すことなく、普段は裏側に隠してる、心の奥にしまい込んでしまった当の本人ですら意識してない心の奥底にある大切なものを、一途な監督の心を開かせる術を持ってして、スクリーンに映し出してくれるのだ。
これは被写体となった水俣病患者にとっても、映画として実名で顔をさらけ出してまで撮影してもらった甲斐があるってもんだと思う。
迷惑だったら拒否したり拒絶できるのに、どんどん撮影は進んでいくのだから、撮る側、撮られる側の信頼関係がよほど深いということまで伝わってくる。
いや、この水俣病という公害の根がそれだけ深く複雑で難解だからこそ、原一男監督はなんとかしてそこにメスを入れたんだと思う。
だから、タイトルが曼荼羅
水俣という混沌とした宇宙に漂うわたしたちに、宇宙の秩序として曼荼羅の世界を描いてくれたような気がします。
上映後のトークでは、嬉しい知らせとして、水俣曼荼羅パート2の計画まで話してくれました。
それでも、水俣問題は切り取られたひとつでなくすべてとつながってて、今の日本の状況そのものだし、家族という単位の変化、すべての犠牲が子供たちに向けられてる中で、ドキュメンタリー映画の質もどんどん低下し、今座ってるこの映画館もまさに閉館する直前であり、絶望の淵に落とされながらも希望ともいえる猛烈な批判と新たな野望をきくことができた。
ね、長い長いといっても、めちゃめちゃ充実した時間を監督と共に時空を共有できた、ありがたい一日となったのでした。

 

 

 

 

 

 

fuhgetsu.hatenablog.com

尾張の赤丸神事は赤ん坊の頭の穴=大泉門に筆で赤丸する虫封じの禁厭(まじない)

大祓や茅輪神事(わくぐり)とともに行われる、この赤丸神事(あかまるしんじ)という言葉をきいたことがない方も多いと思いますが、この尾張一帯に残る独特な風習です。
 


“新生児~6才位までの小児に、疳(かん)の虫・虫気(夜泣き・腹痛・不眠・かんしゃく・病弱)が起こらぬよう祈祷する神事です。疳の虫が入るといわれる頭の柔らかい部分(大泉門)に「朱」をつけていただき鈴のお祓いを受け「疳の虫封じ・魔除け・心身健康成長」を祈る神事です。”

城山八幡宮 赤丸神事 赤ちゃん・幼児の虫封じ
http://www.shiroyama.or.jp/chinowa/akamaru/akamaru.htm

ちなみに、この赤丸神事のことを、高牟神社では禁厭神事(あかまるしんじ)と書き記します。
禁厭(きんえん)とは、呪いで疫病や災害を防ぐことであり、古くから日本在来の呪術です。
 

 

大泉門は、胎児が参道を通るために頭蓋骨の構造として開いた穴ですが、ほとんどは2歳くらいまでに閉じてしまいます。
そこに筆で赤丸⭕️を書くことで、虫封じの禁厭(まじない)をするわけです。


胎内で宇宙とつながっていた胎児は、出生した後もしばらくは大泉門を開いてつながっています。
三つ子の魂百までで、赤ん坊が三歳になると大泉門を閉じ、七五三でその後もしばらく、七歳までは神の子と云われる所以です。


また、こうした風習はインドのビンディそっくり。
同じルーツだと思われますが。
大泉門は頭頂部に近い、額の上の方。
ビンディは眉間なので、額の下の方。


古代から第三の目として認識されていた、第7チャクラと呼ばれる場所。
松果体は、この大泉門の真下の表層にあります。

 

 

 

 

 

もうすぐ尾張津島の天王祭ですがここで牛頭天王とスサノオを再考してみる

夏の土用入りで、尾張津島天王祭が近づくとワクワクしてくる。
尾張スサノオ、ここにあり。

 

しかし、祭りは牛頭天王祇園信仰というパラレルワールド
先日、ついつい「祇園も津島も牛頭天王 スサノオとは関係なし」とあっさり書きましたが、

これだけでは勘違いされて終わるので、今日は長々と書きしたためますので覚悟してくださいね。

スサノオについて、古事記日本書紀には高天原で悪さして追放される話が記されているが、スサノオ牛頭天王であるとか武塔神であるとは何処にも記されていない。
古事記ではそれ以上詳しく書かれてないのに、八年後に書き直した日本書紀にはその後のスサノオが詳しく記される。
何が書かれたかというと、こうだ。
高天原から出雲に天降る前に、スサノオは息子の五十猛神を連れて、新羅の曽尸茂梨(そしもり)に天降る。
この時点では、牛頭天王とソシモリはまったく関係なかった。
では、そのカラクリを見ていきましょう。

備後国風土記に、武塔神スサノオであるとする蘇民将来の説話が記されたのが初見でしょう。
北の神の武塔神が、南の神の娘を夜這いしに訪れる。
後はご存じの蘇民将来説話だ。
蘇民将来の娘以外はすべて皆殺しにした疫神の武塔神は、なんと捨て台詞でわれスサノオなりと名乗るのだ。
武塔神とは中国の疫神との説もあるが、実際の中国にはそのような神名がなく、説話の内容からも陰陽道から派生した神と思われる。
そこで、備後国一宮の素盞鳴神社は、備後国風土記に出てくる疫隈国社(えのくまのくにつやしろ)であると名乗り、由緒あるスサノオ祇園信仰祇園祭の発祥地となった。
その社伝によると、創建は679年。
その後、734年に播磨の広峯神社へ勧請した。
一方、牛頭天王を祀る広峯神社では、八坂神社と同様に新羅人が創建した新羅神社と伝わる。
また、その後の869年に平安京の寺へ勧請し、それがあの八坂神社となる。
一方の八坂神社には、高麗の伊利之使主(イリシオミ)が牛頭(ソシモリ)山のスサノオを祀ったと伝わる。
つまり、記紀が編纂される前からスサノオの信仰があった土地でもなく、陰陽道による備後の武塔神と一体化したスサノオは、その後すぐに仏教も影響して、神仏習合により祇園精舎の守護神だった牛頭天王と同神であるとする祇園信仰にまで発展していく。
日本書紀にある新羅の曽尸茂梨のソシモリは、朝鮮語でソ=牛でモリ=頭で、牛頭であるとされたのだ。
ことのはじまりの武塔神が北の神なので、スサノオ新羅の牛頭山であるソシモリから来たということで、当時の人にとってもますます信憑性を得たことでしょう。
でも、たかがそれだけです。

スサノオは出雲神なのか、スサの国の王なのか、やはり朝鮮半島からやってきた渡来神なのか。
出雲という土地が渡来人の往来する地であり、そうした渡来神の神社もたしかにある。
しかし、だからといって安易に渡来神と結びつけるより、まずは出雲国風土記スサノオ像を詳細に記述をしており、それとは違う性質のスサノオ像を記紀が反映したと見ています。
風土記の素朴な神であるスサノオ御子神の名に剣や矛や木種を撒くようなイメージがあり、そこからストーリーを得て記紀の荒ぶるスサノオ像が出来上がったと。
とにかく、スサノオは出雲の須佐に渡来したのち、出雲の土着神と渡来神が融合して風土記スサノオ像ができあがったのではないか。
話を戻すと、牛頭天王スサノオは関係ない、ということ。
どこを見て判断するかにもよりますが、植えつけられたスサノオ像があまりに個性豊かすぎて諸説入り乱れてますが、歴史に正解はないので、スサノオ牛頭天王についてもみなさんでお考えください。

ところで、まだあるのと思われるかもしれませんが、もっと話を戻すと、全国の天王社の総本社が尾張津島神社
江戸時代まで、全国に祇園信仰が流行り、牛頭天王を祀った天王社が明治の国家神道で祭神をスサノオにすり替える。
日本の歴史によくあるなんとも複雑怪奇な現象ですが、津島神社ももれなくその影響を受けておりますが、珍しくここだけは逆の逆というパターンなんです。
社伝によると、540年に津島神社として創建。
備後の疫隈国社よりかなり古くからあったことがわかりますよね。
その由来はというと、西国の対馬に流されたスサノオ大神が、対馬からこの地に来臨したからです。
もしかすると、これも対馬にいた安曇族が古伊勢湾に入ってきた名残かもしれません。
その後、神仏習合の影響により祭神を牛頭天王に改め、江戸時代まで津島牛頭天王社となったのです。
実は古代に遡るほど、洲崎神社のように尾張スサノオの関係はとても深かったので、このような逆の逆で反転する面白さがこの土地にはあります。
そんなイメージを膨らませ、知識でなく全身全霊でこの大地を感じてみて、ぜひ尾張津島の天王祭を楽しんでみてください!

 

 

 

 

 

この世界観がわしも大好きなんや #君たちはどう生きるか

告知なし。
予告編もパンフもなし。
あるのは入口のポスターのみ。
で、行ってきました。
でも、いつも予備知識なしで映画観るようにしてるので、いつもと変わらず。
ご安心ください。
ここでは一切、感想を述べません。

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とにかく、予想以上の反響があるようで、いつも以上に客入りがよく混んでました。
話題とならないうちに観ておこうと。

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でもこれって、昔は予告編見て行きたい映画を決めることはあっても、タイトルだけとか、ポスターだけとか、音楽もジャケットだけとか、今みたいに失敗しないようネット検索で調べたり視聴したりせず、とにかく直感で見たり聞いたりしてたからなぁ。
それでもいい映画に必ず出会えてた。

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もちろん、つまらんのもあったけど、自分の責任で金払って納得済みで。
人の意見で金払って損するより遙かにマシな。
好きなもんは好きだし。
こうして理屈抜きで観ることができたのは、宮崎駿に感謝せな。
ありがとう。
この世界観がわしも大好きなんや。

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“ハ”と“ナ”のときに花を以って祭る死生観

人が死ねば哀しみ、生まれれば喜ぶ。
しかし、赤子は泣きながらこの世に産み落とされ、あの世へいく死に顔は優しく微笑んでいるものです。


死に対する意識は、国や時代を超えて普遍的なものだけど、その受け止め方には様々な変化がある。
かの大陸では命が有限で、死んでしまえばすべて終わりだから、現世に執着しすぎたり、不老不死という考えにも至るけど。
この列島では、死は来世への一時的な旅であり、おわりのはじまりとして再び生まれ変わると信じてきた。
西洋ではバラが好まれ、日本ではサクラを好み、散り際が儚くも美しいと感じるのもそうしたところから来ていると思われます。

 

縄文遺跡の住居出入口で母親が跨ぐ所に子供の遺体を子宮のような甕に入れて埋葬したり、大人も屈葬といって子宮の胎児の姿で埋葬されてたり、かなり昔から不老不死という考えは希薄だった。

死者に花を手向ける。
これは全世界共通なのでは。
では、なぜ花なのか。
美しいから。
それだけなら、宝石でもいいし、もっと別の何かで代用してもよさそうなのに、猫が死んでも、花を手向ける。
花に対する何某かの意味があって、それを深いところでわたしたちが知ってるからだ。
7万年前の旧石器時代の埋葬遺跡から、ネアンデルタール人も死者に花を手向けていたことが知られるようになった。
やはり、花でなければならないようだ。
その記憶が、未だにつづいてるのも理由のひとつかもしれないが、死に対する考え方は先に書いたように時代や文化によって変化するのに対し、花を手向けることだけ普遍的なのは何故なのか。
花は、奥三河の花祭や郡上白鳥の花奪い祭りなど、冬至旧正月の神事に使われ、生まれ清まりの思想につながる。
記紀神話にもある、イザナミが死んで、“花の時には亦花を以て祭る”という故事をそのまま再現する祭りが、今でもお網掛け神事として花の窟神社で行われている。

 

花という、植物の直接的、部分的な特徴のみ指すのではなく、生命力を感じる花の中に象徴的な生と死を見ていたからであろう。
“は”と“な”は共にアカハマナのア行であり、その発する音や、言霊や音霊として、生死を司る生命力の源のような意味があるのではないかと思います。

 

 

 

 

 

20230528 白山大神の神送り祭@洲原神社

洲原神社の神送り祭にて、午前中に斎田での御田植神事につづき、午後から行われた神送り神事で斎主により奏上された祝詞がとても印象的でした。

 

白山信仰美濃馬場の前宮として、白山が深い雪に閉ざされる冬に白山大神をお迎えする、洲原神社の垢離取祭と神迎え神事には何度か訪れたことがあります。
迎えたからには送らねば。
春に還るときいてはいたのだが、初めてその神送り神事を体感することができました。
以下、自分のためのメモを兼ねた散文です。
5月28日の当日、開始時間が10時からということしか知らずに到着すると、みなさん赤いタスキを掛けたり長靴を用意したりと、午前中は田植えだと知らされる。
自分とこの田植えは6月に入ってから手植えするから見学するだけでやめとこうと思いつつ、やっぱり当日受付で参加することに。
後ほど神送りでお帰りになる白山大神と過ごす最後の時間が田植えのようです。
田んぼに御幸を授けてもらうため、カミさまを唐櫃に乗せて、少し離れた場所にある斎田までをみんなで歩いて神輿渡御。
晴れ予報だったのが曇り空でしたが、タイミングばっちりの田植え日和。
品種はイセニシキかな。
それを1本植えが理想だけど2本植えでもいいとのことで、わたしは2本植えしました。
綱の張り替えで太鼓を鳴らし、早乙女では無く誰でも気軽に参加でき、和気あいあいと楽しく手植えができてよかった。

 

この御田植神事は6年前に復活したようです。
そして、しばらく途絶えていた神輿渡御は、昨年から古式に近い形で復活したとききました。
まだ本殿の中に大きな神輿があって、本来は古い集落の神輿休みの場所まで回っていたのを、その大神輿が出せない事情により、神輿代わりの唐櫃ですが、いつか完全復活したいと仰ってました。
それから、昔の神送りは旧暦四月九日だったそうで、今年は5月28日の日曜日がちょうどその四月九日だったというのもすごい。

 

斎田から洲原神社に戻って昼休憩の後、いよいよ白山大神の神送り。
その時間まで、拝殿でご祈祷を受ける方や人形(ひとがた)の形代(かたしろ)を川に流すお祓いを受けてる方もたくさんいらっしゃいました。
境内の池にも水神が祀られてますが、この神岩の頂にはかつて水神の祠がありました。
とにかくここは禊ぎ祓いのお宮と呼ばれるほど、水辺の瀬織津姫神事が多い気がします。

 

垢離取祭のように、神送り祭も神岩のある長良川でやるのかと思いきや、拝殿での神事のみ。
そういった意味で写真でお見せするような見所もないお祭りですが、そういえば垢離取祭の神迎え神事も拝殿だったし、けっこう夜遅くまでたくさんの人が残って行いますもんね。
だからこの神送り祭の見所は午前中の神輿渡御にあるのか、とやっと理解。
田植えから戻った唐櫃の飾りが取り払われて本殿前に鎮座し、粛々ととても厳かに執り行われていましたが、後半というか最後に斎主の詠みあげる祝詞がすごかった。
五十嵐宮司祝詞も、内容とか中身はよくわからないけど、声もいいしとても心地よく好きなのだが。
神送り神事のメインは斎主だということだけわかった。
斎主とは何なのかよくわからないけど、そういえば垢離取神事でたった一人が水垢離するのも斎主だったなぁと、ふと。
よく見ると、やはり同じ顔の同じ人だ。
大祓祝詞も、この日はすごい感じた。
ひふみ、からはじまる長い祝詞があったり。
白山のカミさまをうたう七五調の詞も、すごい。
そして最後に、白山大神を送り出す警蹕(けいひつ)の唸るような響きが、このカミさまへの畏敬の念を感じるほどすごかった。

 

いつもなら低頭して、撮影も遠慮し目を瞑るけど、宮司禰宜が鈴と拍子木のような鳴り物を手に持っていたので、これは普通の祝詞ではないと直感し、直視はできないけど俯き加減でスマホ画面見ながらちょっとだけ撮影。
多くの方に、この祭りの本質的な部分がなんとか伝われば。

動画ショートバージョン

動画ロングバージョン

神送り神事@洲原神社
https://youtu.be/V9UmWWGMYFQ

 

こうした一通りの神事は、通常は氏子総代までしか中に入れず一般の参拝者は見ることのできない類だと思うけど、洲原神社は表にある壁のない拝殿で誰でも見れ、さらに希望者は誰でも拝殿の上まで上がって間近でカミさまに接することが許される、とても懐の深い神社。
宮司の言葉からも伝わりますが、いろんな場面で神職のみなさんから氏子や崇敬者への感謝の念を感じます。

 

ここは昔から神岩や砂浜の淵がある長良川が遊び場だったのでよく知ってて、30年くらい前に通ってた頃は鬱蒼とした社叢に苔生して朽ちかけたような社殿にどこか寂しくも威厳のある神々しさを感じ、いつ来ても誰にも会わず独り占めできる隠れ家的な神社として好きでしたが。
時代が変わり、宮司も変わり、どんどん人が集まる聖地のように輝きを増してよくなっていくのがわかる。
まだ白山信仰も神社がどういうところなのかすら知らない、神岩を無人島と呼んで子供たちと登るような失礼な態度で接していたこともありますが、そんな思い出と共に今でも大好きな神社です。

 

 

 

 

 

五段神楽の白山中居神社春季例大祭

新緑が眩しい、石徹白の春。
いつ来ても懐かしい場所。
今年に入って初めての白山中居神社へ。
今日(5月21日)は、春季例大祭五段神楽がありました。
秋季例大祭のゲド投げ神事は見ることができましたが、春の例祭には来たことがなく、この風変わりな名称の神楽を見るのは初めて。
五段神楽を知ったのもコロナがはじまったあとのタイミングだったので、それ以来、中止や縮小と大きく揺れて、完全な形での開催という4年ぶりの復活に立ち会うことができました。

 
とにかく、神楽という言葉はとても気になります。
写真で拝見すると見た目は二人の巫女舞で、演奏も優雅な雅楽なのかと。

 
ところが、巫女の五色の鮮やかな装束に、神楽鈴の振り鳴らす響きと、それに連動した笛の音、太鼓(たいこ)の変拍子と、16ビートを連打する大鼓(おおつづみ)がいきなり変性意識へと誘う。
胸がドキドキとして、高揚感というか。
神懸かった場の創出。
これは間違いなく、神楽だ。
 
※動画はTwitterでご覧ください

 

今まで見た神楽もそう多くはないが、神楽といえば何某かの面をつけて、金属系の鳴り物と激しいビートの太鼓で神懸かった舞いとなったり、長時間の変性意識へと誘うようなイメージだったり、面をつけず頭に冠り物をして化粧をした稚児舞もある。
五段という五種の舞のはじめに、鳶の舞。
つづいて二人舞、扇の舞、鈴の舞、幣の舞が、同じような神楽の演奏で立て続けに舞われ、手に持つ神楽鈴が扇や御幣となったり一人舞や二人舞と、それぞれの所作が異なる感じだった。

 

きくところによると、この五段神楽は天武天皇の即位を称えた五行の舞が、石徹白と石見や出雲などで舞われたのがはじまりという。
また、五段神楽は能にもあるし。
その辺は詳しくはわからないが、とにかく石徹白の五段神楽の特徴は、鳶の舞があること。
神武天皇の建国時の瑞兆の鳥、鵄(とび)に関わるこの舞いは、建国と天下太平を祈る舞いとして最もふさわしいとされる。
ようやく見れた五段神楽。

 
そのあと、境内に安置されたいた神輿がカミさまを乗せて渡御する。
このとき、最初に禰宜の風変わりな所作があった。
神輿の前で一通りの神事をし、鏡のついた見たこともない大幣を振りながら、国家安康や五穀豊穣などを唱えて前後に動く。
 
※動画はTwitterでご覧ください

 

やはり見たことがない所作。
ただただ、このような神事が千年もつづくことに感謝しかない。
以前は御旅所まで駆け下りて戻ってきたそうですが、この神輿は相当な重さ。
最近では境内の中を一周して終わるとのこと。
 
※動画はTwitterでご覧ください

 

 

こうして、石徹白では長い冬から新しい春を迎え、神武天皇天武天皇のように新しい時代の国家安寧を祈る大切な神事として、ただの見物客ですが立ち会えることができてよかった。
帰り道、道路を横断する白っぽい蛇に遭遇。
久しぶりに石徹白のカミさまを見た。
お見送りありがとうございます。
また来なさいということですね。