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尾張のハグリだった柳津の聖徳太子寺と穴太部古天神

境川の北側にある茜部の長森縣神社から、境川を越えて南側、その昔は尾張葉栗だった柳津の地へ。
そこで聖徳太子にまつわる伝承地を辿る。

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光澤寺は、6世紀に聖徳太子が創建した太子寺。
その鎮守として、境内に穴太部(あなほべ)神社を創建したと。
つまり、穴太部天神を祀る式内社尾張国葉栗郡の穴太部神社のことだ。

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ここがその有力な論社として、祭神として古天神の天穂日を祀ってること、聖徳太子が由来となってることから極めて説得力がある。
式内論社のもうひとつは、木曽川下流へ南下した一宮の玉ノ井にある賀茂神社だ。
地名に穴太部があるくらいで、こちらの由来は薄っぺらく祭神からも消えている。
強いていえば、先に述べたように木曽川の流路変更により一時的に玉ノ井へ遷座していた時代があったかもしれないということだ。

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ではこの気になる名前、穴太部(あなほべ)とは何か。
聖徳太子の母の名が、蘇我の血が入った穴穂部間人(あなほべのはしひと)なので、そういうことだろう。
近江の高穴穂宮は、日本書紀には景行〜成務〜仲哀天皇の三代の皇居として伝わっているが、もっと遡った時代。
聖徳太子と穴穂部間人の一族は、近江の大津穴太(あのう)に高穴穂宮をつくり、離宮として住んで居た可能性があるのだ。
そこから、有名な近江の石工集団、穴太衆(あのうしゅう)が出ているが、そういうことだ。
当時の聖徳太子が実際に美濃の柳津(当時は尾張の葉栗)に来たかどうか。
ここは東山道だからその可用性はじゅうぶんにある。
では、その目的は何であったのかだ。
東国や美濃に蘇我氏聖徳太子の荘園があることから母系のルーツがあると踏んでいる。
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聖徳山 光澤寺
岐阜県岐阜市柳津町本郷2丁目17
https://maps.app.goo.gl/Va1AUbefXJ8nmRiJA

以下、聖徳山光澤寺 由緒の石碑より
当寺は、聖徳山一城院川並光澤寺と称し、真宗大谷派に属している。
寺伝によれば、聖徳太子の創建と伝えられる。推古天皇六年(五九八)聖徳太子二十五歳の時、第五の后(蘇我馬子の娘)が懐妊され、その安産祈願の為、当寺を建立された。その時生まれられたのが、山背大兄皇子である。
太子建立の四十八の寺院のうち、第三十八番にあたる。
その当時は、太子寺(たいしじ)と称した。
その後、平安時代天台宗の寺院となり、耀仁寺(ようにんじ)と称した。
鎌倉時代、柳津源太有光(源頼親の孫)、柳津三郎光重が当地に住まいし、往持も務めていた。嘉禎元年(一二三五)四月、親鸞聖人が関東より京都へ向かわれる時、当寺に三日間逗留され、光重は御化導をうけ、弟子となり、浄土真宗に改宗した。寺号も光琳坊(こうりんぼう)と改めた。その時、当寺は、柳津地内、字一ケ城にあった。光重は、法名を信光といい、文永二年(一二六五)入寂。以来連綿と法灯を伝え、現在二十八世となる。
天正二年(一五七四)正月、織田信長に堂宇を焼き払われる。
慶長十一年(一六〇六)、現在地へ移転再建される。
文三年(一六六三)、光琳坊を改め、光澤寺と称する。

以下、柳津城趾の案内板より
戦国時代には、木曽川の本流は今の境川あたりを流れ、要所には大小の城がありました。
その当時、ここに柳津城があったといわれています。旧柳津村には一ケ城・七ケ城という字名があり、ここには柳津城の出城や砦があったと思われます。
柳津城主は竹腰摂津守といわれていますが、一五五六年(弘治二年)長良川の合戦で戦死し、その後、叔父の成吉摂津守が城主になりました。成吉摂津守は斎藤義龍の武将さらには龍興の重臣として仕えていました。
当時、尾張国であった柳津まで美濃の勢力が及んでいたようです。

 

柳津 天神神社
岐阜県岐阜市柳津町北塚2丁目27-2
https://maps.app.goo.gl/VefbZFGpNEctfdyRA

以下、金幣社 天神神社由緒の石碑より
祭神:
古天神(天穂日命
菅原道真
由緒:
元穴太部神社は光沢寺の前身である太子寺の鎮守として聖徳太子の頃創建されたと伝えられ、千年以上の昔から葉栗郡一五座の筆頭神社として崇拝されていた、江戸時代までは光沢寺の管理であったが、明治元年神仏分離により総氏子の手に移った。
元北天神社は清和天皇の皇子貞純親王の子孫源頼定が緒国武者修行に出てこの地に移り住み、加賀の武士戸田越後守に武道を教えたお礼として戸田家の什宝、沈水香木(白檀)を貰い受け、日頃厚く信仰須する学徳高い道真公の像六体を彫刻し、弘治3年(1557)2月25日六社を建立した内の一社である。
元中天神の鎮座地は柳津村字中宮東であって尾張地名考によれば北天神と共に厚く崇敬された神社である。
昭和20年7月5日 右三社を現在地に合祀し、昭和29年5月神社名を天神神社と改称した。

 

 

 

 

 

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