安弘見神社とこの白山神社の間に親王塚があり、両社は和田川を挟んだ対岸にある。
この杜の境内に、白山神社と南朝神社が並んでいた。
まずは、下手の白山神社から。
参道橋と鳥居の間にある変わった意匠の灯籠が気になった。
それは、はからずも南朝供養燈でした。
そして、なぜか今村神社と記された社号標が。
明治維新の改号で今村神社とされた時期があるようだが、調べても詳しいことはわからない。
蛭川村の南朝伝説では、親王が蛭川へ足を運ばれたときの従者を四家といい、今村と不破と板津と林の四家。
この四家の中に今村氏があるので、その関係か。
創建を遡ることは不詳なれど、四家の板津家が社殿造営した記録があると云う。
社殿は蛭川村有形文化財に指定され、美しい本殿は厳重に保護されていた。
白山神社の上手側に、南朝神社があった。
南北朝の戦いで戦死した尹良親王(後醍醐天皇の孫)と英成親王(英良親王)の親子と、その家臣を祀ったのがはじまりと云う。
本殿の上手脇に、四家の不破家の慰霊碑もあった。
さらに社殿の裏手の杜には、由井神社の祠があった。
南朝武士の末裔で江戸時代の由井正雪を祭神として、昭和の南朝神社再建に合わせて建立された、と書いてある。
もうあちこちでそのデザインひとつひとつに感銘する。
祠の裏側が、神聖な水に囲われたデザインとか。
そして、白山愛郷之碑にも何か感じる入るものがあった。
和田川が流れるこの地から北側一帯は、南朝方の和田一族に関わるような蛭川和田という地名だったり。
和田姓の母方の故郷は、白山信仰の郡上白鳥だから。
自分の中では、過去のどこかと現在のここが一緒になってしまうのです。