月音(つきのね)∞風音(カヂヌウトゥ)

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“ハ”と“ナ”のときに花を以って祭る死生観

人が死ねば哀しみ、生まれれば喜ぶ。
しかし、赤子は泣きながらこの世に産み落とされ、あの世へいく死に顔は優しく微笑んでいるものです。


死に対する意識は、国や時代を超えて普遍的なものだけど、その受け止め方には様々な変化がある。
かの大陸では命が有限で、死んでしまえばすべて終わりだから、現世に執着しすぎたり、不老不死という考えにも至るけど。
この列島では、死は来世への一時的な旅であり、おわりのはじまりとして再び生まれ変わると信じてきた。
西洋ではバラが好まれ、日本ではサクラを好み、散り際が儚くも美しいと感じるのもそうしたところから来ていると思われます。

 

縄文遺跡の住居出入口で母親が跨ぐ所に子供の遺体を子宮のような甕に入れて埋葬したり、大人も屈葬といって子宮の胎児の姿で埋葬されてたり、かなり昔から不老不死という考えは希薄だった。

死者に花を手向ける。
これは全世界共通なのでは。
では、なぜ花なのか。
美しいから。
それだけなら、宝石でもいいし、もっと別の何かで代用してもよさそうなのに、猫が死んでも、花を手向ける。
花に対する何某かの意味があって、それを深いところでわたしたちが知ってるからだ。
7万年前の旧石器時代の埋葬遺跡から、ネアンデルタール人も死者に花を手向けていたことが知られるようになった。
やはり、花でなければならないようだ。
その記憶が、未だにつづいてるのも理由のひとつかもしれないが、死に対する考え方は先に書いたように時代や文化によって変化するのに対し、花を手向けることだけ普遍的なのは何故なのか。
花は、奥三河の花祭や郡上白鳥の花奪い祭りなど、冬至旧正月の神事に使われ、生まれ清まりの思想につながる。
記紀神話にもある、イザナミが死んで、“花の時には亦花を以て祭る”という故事をそのまま再現する祭りが、今でもお網掛け神事として花の窟神社で行われている。

 

花という、植物の直接的、部分的な特徴のみ指すのではなく、生命力を感じる花の中に象徴的な生と死を見ていたからであろう。
“は”と“な”は共にアカハマナのア行であり、その発する音や、言霊や音霊として、生死を司る生命力の源のような意味があるのではないかと思います。