久しぶりのブログです。
最近はSNSでも、わざわざ神社を紹介することもしなくなりました。
神道を特別視したり、どこそこの神社がすごいとか、ネタとして利用する必要は無いので、自分と向きあう場所として訪れるのみ。
しかし、また不思議な出会いとなった場所があったので、メモを兼ねての紹介です。

祭神など知らず、何も知らずに通りかかった先で、山県でのご縁として挨拶せねばと立ち寄ったのがこの七社神明神社。
どこのカミさまだか、七つの柱が集まって祀られてる。

ただそれだけのつもりが、鳥居を潜った先の案内板に、主祭神が大碓命とあるではないか。
かつては一帯が武儀郡、それ以前は古墳時代からの牟義都国。
その王であった大碓の痕跡がここにも残されていたか。
並列の祭神、七つの社もすごい。
由緒によると、栗穴神が古くからの土着の自然神(岩窟の穴を意味する巨石信仰と思われる)で、その場所に大和の中央から来た大碓を裏側から守る形(支配ならこの地主神は後ろ戸となるか抹消される)で国を支えたという意味でしょう。
さらに、辰巳神(水神)、癌樫神(瘤のある樫の木の巨木信仰)、石原神、棚森神など記紀神話に出てこない自然神だらけである。
これほど古い神々を大切に思い、奇跡的に守られ残された神社は珍しい。

そこで調べてみても、ここでの重要な栗穴神の栗穴社とは、他所に無い唯一の神名であることがわかった。
しかし、大碓の父である景行天皇のいる大和には穴栗神社あり。
記紀にはその息子を美濃に飛ばしたとか逃げたとかろくなことが書かれてない。
だからか、穴栗が反転して栗穴になってるのも頷ける。
大和の穴栗は二社あって、春日大社にも勧請され、それぞれ穴栗(穴次)と伊栗(井栗)のセットで二社の祭神が反転しあい混乱するけど、元は岩窟の岩穴の意味での巨石信仰の名残が神名に込められてることは想像に難くない。
話は岐阜の美濃に戻って、武儀郡は今の関市と合併してわかりづらいが、武儀川流域で逆に関市を含む広大な領域が武儀郡であり、かつての牟義都国のごく一部という名残です。
大海人皇子を支え、壬申の乱を大勝に導いたムゲツ氏が後の時代に現れるが、そのムゲツ氏は大碓の子孫だ。
古墳時代からの豪族とされるが、元は美濃や三野となる前の大国、牟義都国の王だった日子坐王(彦坐王)の後継者が大碓だった。
白山からの長良川流域とその支流の武儀川流域をまとめあげ、その昔は美濃白鳥(郡上白鳥)辺りに王都があり、南下して本巣辺りに落ち着いたというのがわたしの見立て。
本拠地は昔過ぎて忘れ去られたのと、徹底的に証拠隠滅されて地元には何も残ってないが、白鳥という地名はヤマトタケルでなく大碓にあると踏んでいる。
池田町に白鳥地名があり、その白鳥神社では大碓と小碓が入れ替わって(双子なのであり得る)、大碓が伊吹山へ行ってこの地で亡くなったという伝承あり。
山県市には大碓が住んでいて、ヤマトタケルが牛に乗って訪ねてきたことを祝う祭りまで残ってる。
武芸八幡宮は元々、牟義都国造の祖である大碓を祀っていた。
多くは消されたが、記紀に書けない歴史がこの地にはあり、僅かながら大和の支配下となる前の東国の存在と、日子坐から大碓に至る地域伝承の痕跡を残してくれている。

そのうちのひとつが、この七社神明社だとわかった。
三つ並んだ真ん中が東宮明神の大碓として、両サイドのどちらかが栗穴神、そしてもうひとつはどなたであろう。 →《訂正》案内板をよく見ると、真ん中の本殿に七社の七柱神がまとめて祀られており、両サイドは脇社として豊受大神の御鍬社と、須佐之男命の津島社と、ちゃんと書いてありました。
とにかく、この本殿の木彫など造りが素晴らしい。




ぐるぐる巡ってると、本殿の後ろに古墳の横穴石室が露出していた。
そのことはどこにも書かれておらず、調べようもなかったが、栗穴社の穴とは、もしかするとこの古墳の横穴の意味で、古墳に眠る祖霊信仰だったのかもしれない。


いずれにせよ土着の地主神であることには変わりなく、それが今でも形を変えながらもこうして残されていることに感謝せざるを得ませんでした。
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