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20230416 杵振り祭り@安弘見神社

とうとう体感することができました。
蛭川杵振り祭り(杵振り花馬祭り)です。
この出で立ちに、この配色。
とても日本とは思えない。
それが岐阜の巨石群が集中する蛭川に伝わる伝統文化。
どこか沖縄の祭りのような、太鼓と笛の囃子方
祭神のスサノオに相応しい祭りだと感じました。

2023 杵振り祭り
ソーイ♪ソーイ♪

岐阜の、わたしが勝手に恵那蛭川と呼んでる地域。
現在は中津川市の、かつての恵那郡蛭川村です。
2019年までずっと金山巨石群に通っていたわたしが、2020年の春分を前にこの地で新たなスポット光が入る巨石群を発見して通い出してから、現地の方と歴史や文化について学ぶご縁をつづけてきました。
その間、実にコロナ騒動と丸被りで、この祭りを知ってからずっとこの日が来ることを待ち望んでました。
そうやって出会った地元の古老にようやくこの祭りを案内してもらうはずでしたが、当日お会いする約束で連絡すると、この3年で足が悪くなってしまい、祭りには行けないから自宅まで来て欲しいと。
祭り当日の地元の歴々が集う宴会場に招かれ、なんと接待まで受け、普段滅多にお会いできないような古老たちからの聞き取りができ、意外な展開で貴重な時間を過ごすことになりました。
みなさんおおやけに飲めるとなり、祭りは死ぬほど見てるから見なくてもいいと、4年ぶりの祭りを別の方向で楽しんでらっしゃる。
引き止める面々にわたしはお付き合いしきれず、なんとか開放してもらって祭り会場へ向かった。


祭り前から、4年ぶりの町のにぎわいはすごかった。
祭りが無い3年前にこの安弘見神社へ来て、案内看板の写真見てびっくらこき、南朝云々の起源が書かれてるのを見て納得し、うわぁーとなりましたが。
この辺りの各地で南朝由来の史跡巡りをし、役場の資料館と図書館で調べ、古老たちから聞き取りをし、たどり着いたのは、この祭りは南朝とは関係無いという話です。
だから、定説や知識といったそういう思い込みで祭りを見ない。
地元の人でさえわからないというフラットな気持ちで、ずぶの素人として祭りを楽しむことに専念しました。

いよいよ、12時半に蛭川の役場前をスタート。
あの出で立ちの杵振り踊りが、様々な役どころのグループごとに、古い町並みの街道を安弘見神社めがけて練り歩きます。
先導の謎の役人風な神主なのか禰宜なのか。
花祭にいそうな赤鬼が柄杓で頭をこついてまわり、オタフクがこれも花祭に似た鈴を振り振り、道中を厄祓い。
つづいて、カラフルな衣裳を纏った杵振り踊りの大集団がやってくる。
総勢何人いるかと思うほどたくさんの行列で圧巻なんだけど、その踊りがまたかわいい。
杵をクルクル回しながら、腕を後ろに組んでユラユラしたり。
後方につづく囃子方の音に合わせての掛け声がリズミカルにくり返され、土地全体が浄化されていく感じと、わたし自身が祭りのエネルギーにどっぷり包まれていく高揚感。
つづく獅子頭に水平の巨大マントが靡いて、その暴れっぷりが尋常じゃない。
先導する二人の役どころが暴れ獅子を宥めたり行かせまいとする所作。
途中、この地に移住した友人の家の前を通って。
なんじゃもんじゃのヒトツバタゴの木を通って。
普段というか、いつも来たときはひっそりとした田舎町なんだけど。
この参道の街道が、いつの時代の何処のクニなのかわからない、不思議な空間と化しながら、祭り囃子が木霊して日本の古くからある美しい祭りの光景が心を震わせます。
途中の橋で休憩したかと思うと、反対側から迫り来る神輿が水飛沫をぶちまけながら、道中の厄祓い。
何から何まですごいです。
再スタートして、古い町並みを進むと安弘見神社の鳥居へと突入。
ここから一旦、真ん中辺りの広場まで上り、そこからは狭い階段が天上にある本殿までの急峻な階段。
ここでクライマックスを迎えることとなるのだが、その盛り上がり方がすごい。
時間をかけた丁寧かつ、壮絶な勢いのくり返しで、最後の花馬まで引っ張りに引っ張って、天まで突き抜けるかのように。


祭りを終えても、総じていえることは、わからないの一言。
なぜこの色彩なのか。
杵振りとは何か。
その辺りは、同じようにカラフルな杵振り踊りをしているという切井の佐長田神社にも行ってみないと。
ただ、細かいことはわからないけど、この祭りの持つエネルギーは、爆発するような命の再生とか新しい命の誕生のような、地球生命体のビッグバン。
祭りの定説でいうところの五穀豊穣と同じ意味ですが。
頭に被る市松模様のカラフルな帽子は、餅を搗く臼とされてる。
杵は男性エネルギー、臼は女性エネルギー。
それが杵振り踊りで交わりながら、参道の階段を駆け上ったり下ったりをくり返す。
そして暴れ獅子が眠るのは、受精して着床した瞬間であり、妊娠した胎内のよう。
クライマックスで花馬が駆け上がる凄まじさは出産のように、この祭りの全エネルギーを背負って天まで昇る道が開けたかのように。
その子宝をみんなにお裾分けするかのように、最後に広場で餅撒きをする。
これぞまさに、五穀豊穣、子孫繁栄ですね。


本当のところはよくわからないけど、魂や心の奥にドスンと響く、これぞ祭り、といった迫力にまたしてもやられたのでした。
この前の、山県のヤマトタケルと大碓伝説の柿野祭りでも感じた、伝統や伝説の向こう側にある世界が、時を超え、今でもこうして血の中に刻まれ、未来へ橋渡ししていく共同体という大きな生命、そんな命そのものを垣間見た感覚。
わたしはどこから来て何処へ行くのか。
これからますます楽しみです!