長森の縣の社を遷す。
それがどうした、となるかもしれませんが。
その場所は、木曽川の旧本流だった境川沿いにある茜部神社のすぐ西隣にある。
そこからすぐ北に式内社比奈守神社があるが、その論社は遠く離れた長森の手力雄神社。
同じ神社が二つあるはずはないという常識が通じない、この地域ではあり得る文化なので、現在目の前に見える風景からは忘れ去られるか気にもとめられない、考えただけではただの謎に包まれてしまうことでしょう。
それくらい長森という土地に絞って歴史を掘り下げても見えにくくなってるからこそ、遠く離れた茜部に偏在する意味を重く受け止めている。
ここへ来るのは二度目だが。
長森の縣大明神は、日子坐(ヒコヰマス)王だ。
そう直感した。
イニシキイリヒコと物部の金華山南麓にある長森の実家と、木曽川を挟んだ自宅を往き来する中で、県庁近くへ用事がありたまたま通りかかり、呼ばれるようにまたここへ来ることができた。
古代東山道、鎌倉街道、中山道、鮎鮨街道、と様々な道が交差する交通の要衝となった川文明。
ここが美濃尾張。
現在、岐阜愛知を隔てる県境が木曽川となってるけど、江戸時代までは岐南より北の境川が本流で、美濃尾張を隔てていた。
尾張の中嶋(尾張古図にある中之島)と葉栗(縄文語のハグリ)が、江戸時代に最後の大洪水で本流が南下。
中島と羽栗の一部が美濃側の領土となり、その後の合併で羽島地名が生まれ、岐南や笠松も羽島郡だったことからわかるように、もともとは尾張の領土だった。
式内社などの古い神社は、境川から北にあれば美濃国厚見郡、南なら尾張国葉栗郡と覚えるといい。
現在の境川から木曽川までの南北間は、固定されないまま本流の位置が流動するエリア。
それこそが、ハグリという縄文語の意味なのかもしれない。
だからこそ、屋根の軒下に船をぶら下げ、半定住の生活様式で水没による集落の大移動が度々起こり、常に歴史を動かすような固定化されない神社の遷座がくり返されたことは、必然であり、想像に難くない。
縣神社 (あがたじんじゃ)
主祭神:県大明神(あがただいみょうじん)
住所:
岐阜県岐阜市茜部野瀬3丁目249番地
https://maps.app.goo.gl/W9wjRbrGcnMZmVXe7
由緒由来:
永和元年六月一日鎮座。永和元年六月朔日長森縣の社を遷す。伝記に曰く、縣大明神は武内宿禰十四世苗裔参議左大辨紀家守は延暦三年美濃に任國の時、征夷大将軍多治比縣守の孫大内紀縣則の子を猶子と為て検校太夫紀縣守と曰ふ。美濃國に住す。貞観十五年八月十五日卒す。壽百八歳。其の後平治年中渋谷金王丸之を崇め縣大明神と号す。葉栗郡中島郷に縣神社あり。
縣神社詳細 - 岐阜県神社庁
http://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=985&shrname=%25E2%2598%2585%25E7%25B8%25A3%25E7%25A5%259E%25E7%25A4%25BE%25E2%2598%2585