月音(つきのね)∞風音(カヂヌウトゥ)

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伊勢志摩の太陽信仰とシリウス 〜謎のサルタヒコとヒライアカルライジング

musublog(2011年08月06日21:07)
http://www.musublog.jp/blog/fuhgetsu/?entry_id=14464(2020年4月14日にブログ閉鎖)

 

 

 

*以下の日記は、3年前の旧暦七月七日に書いたものです…

[mixi] 日記(2008年08月07日22:48)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=894873837&owner_id=4857509

こちらが、その日付ごとデータ移行したブログ版
http://www.musublog.jp/blog/fuhgetsu/?entry_id=9174
https://fuhgetsu.hatenablog.com/entry/2008/08/07/224800

 

本日は七夕ですので、その中から一部抜粋して転載させていただきます…

 

 

 

 

ヒライアカル・ライジング(heliacal rising)とは、太陽に次ぐ明るさを持つ恒星シリウスが、父なる太陽と同時に東の空へ昇ること。
このときナイル川の水位が上昇を開始します。

 

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冠水した大河は氾濫し、やがて肥沃な大地として潤います。


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この水位変動を基に1年を365日と定めたエジプト暦。
そのシリウス(ソティス)周期は1460年です...
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14359625&comm_id=1110372

当時のエジプトではシリウスのことをソティス星と呼んでいました。
英語では「Dog Star」、中国では「天狼」と呼ばれ、星座ではおおいぬ座の鼻先にあります。

 

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アジアでは昨日までが夏土用でした。
この土用を英語では「dog days」といい、盛夏を意味します。
もちろんシリウスに関係してて、犬星が太陽と共に出没する7月3日頃~8月11日頃をさしています。
だからちょうどヒライアカル・ライジングの時期とも重なるわけです。

もともとシリウスは、ギリシャ語で「焼き焦がすもの」という意味なんです。
現在は青白く輝いていますが、バビロンの粘土板をはじめ古代ギリシャやローマでも、シリウスは「赤い星」だったことを伝えています。
天を焼き焦がすという尾張富士の火振りもそうだけど、青森のネブタ祭りも本質は火祭りにあったり、時期的にも関係してそうで気になります...
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=891563592&owner_id=4857509


エジプト暦の第1の月はトト月。
太陽を先導する犬星シリウスは、神格を帯びた犬神となります。
古代エジプトのトト神(トート神)はもともと犬頭でヒヒ姿でした。
時代や王朝と共に、その姿をヒヒの頭やトキの頭へと変容していきます。

 

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古代のエジプト文明は、ちょうど日本の縄文時代と同じ時期。
東の果ての古代文明、縄文の太陽信仰とつながっていたとしてもおかしくありません。

天孫を先導した太陽神サルタヒコ。
赤ら顔のその容姿からも、赤い輝きのシリウス(焼き焦がすもの)やトト神の姿となんだか重なって見え、私の中ではつながった感じがしています。

 

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伊勢の海人族が奉祀したサルタヒコは、なぜかその海で比良夫貝に挟まれ溺れ死にました...
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=883539102&owner_id=4857509


ギリシアの聖人クリストフォロスは犬頭の巨人。
犬神キュクロプスは一つ目の巨人。
犬星は太陽の横で輝く一つ目のような星。

 

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そのキュクロプスは、ギリシャ神話の雷と鍛冶を扱う神様。
英語読みでサイクロプス
サイクロンの語源です。
台風とか、凄まじく吹き荒れる風のイメージ。

そして、日本のダイダラボッチ(踏鞴法師)も一つ目の巨人です。
志摩ではダイダラボッチ伝説の残る大王町へ行き、大わらじを流す浜と波切神社へ足を運びました...
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=890847492&owner_id=4857509

志摩地方では「ダンダラボッチ」と呼ばれ、古くは「沖の一つ目」と呼ばれていました。
このダンダラボッチが祀られているという多度大社の天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が、伊勢の忌部氏の祖というのも気になります。

それから、波切神社には金山彦神も祭られています。
しかし製鉄神である金山彦は、鍛冶神である天目一箇のダイダラボッチと非常に仲の悪い神として知られています。
なぜなら天目一箇を追い出した地方の神社には、必ずといっていいほど金山彦が祀られているのです。
伊勢と多度大社から山脈沿いに北へ行くと、美濃一宮の南宮大社に金山彦が祀られています...
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=828844775&owner_id=4857509


大王町には須賀という地名があります。
記紀神話ではダイダラボッチが住んでいた場所であり、スサノオが住んでいた場所ともされています。
伊勢神宮は北を向いていますが、自然とその先にある津島神社スサノオと真清田神社のニギハヤヒスサノオの子)も拝んでることになります...
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=884168705&owner_id=4857509


ダイダラボッチは鉄の産地に多く伝わる伝説として、出雲を中心に日本全国に伝わっています。
その多くが、ヤマトタケルの神話が残る地域となぜか重なっているんです。

ヤマトタケルが伊勢の斎宮である倭姫命を頼ってきた際、志摩の大伴部氏と共に東国へ赴く事となります。
この時、ダイダラボッチが作ったといわれる天の叢雲の剣(草薙の剣)がヤマトタケルに手渡されます。

こうして天叢雲剣スサノオからアマテラス、倭姫、ヤマトタケルへ引き継がれる。
そして伊吹山へ向かう前のヤマトタケルは、草薙剣尾張のミヤズヒメへ手渡している...


というわけで、このところ気になっていたキーワードが次々につながる不思議な旅でした!!!
この続きはまたいつか、どこかの旅で出会うのでしょうか...






私の道しるべ 〜海の記憶「猿投神社の尾張古図」【改訂版】

musublog(2010年08月25日18:24)
http://www.musublog.jp/blog/fuhgetsu/?entry_id=2969(2020年4月14日にブログ閉鎖)

 

 

 

猿投神社に伝わる養老元年(717)の尾張古図。
かつて、濃尾平野が海であったことを物語っています。

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尾張平野ははるか以前、養老山脈を断崖とする深い谷でした。
約1万年前から海面上昇し、約6000年前にピ-クとなる縄文海進がありました。
海進と海退をくり返しながら、約2000年前には葦原を耕地に変え、国生み神話の時代に入ります。

この地図からは、木曽三川に至る歴史と伝統文化を知る上で、ひとつの道しるべとなるでしょう...

 

 

 

 

私は各務原市で生まれ、岐阜市で育ちました。
母方は郡上の白鳥出身で、父方はもののふの出で船乗りだったり転々としていたようです。

子供のころからこんな海なし県の、しかも巨大な濃尾平野の最果てに、なんで○○島とか海を感じる地名が多いんだろうとか、なんで山なのに船の神輿があるんだろうとか。
かれこれ10数年も前、たまたま訪れた木曽三川公園の資料展示で輪中の歴史を見ていたら、その答えがばっちり描いてある古代の地図に出逢った。
今でもそのときの衝撃を忘れることができません。
長島、津島、枇杷島、飛島、中島など、「島」のつく地名が一目瞭然。
(ちなみに岐阜の「羽島」もそうだと思っていましたが、後で調べたら合併による地名でした)

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その後、再びこの地図と出会ったのは新聞記事の中でした。
岐阜新聞で連載されていた「ぎふ海紀行」から、1998年2月4日付の記事を全文ご紹介します!

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ぎふ海紀行 海の記憶

古代の濃尾平野 金色の波寄せた海湾


 太古の海水がわき出た本巣郡根尾村の「うすずみ温泉」から、卑弥呼(ひみこ)と争った狗奴国王の古墳ではと注目を集める象鼻山のある養老郡養老町まで根尾川揖斐川沿いに南下する時、はっと気付いた。

 西の伊吹山から南へ養老山塊がどっしり構えるが、そこから南、東に目を転じる時、はるか東に岐阜市金華山が島のように浮かぶほかは何一つ遮るものはない。まるで大海原のような濃尾平野を見て、一枚の古地図を思い出したのだ。

 「世に三河国賀茂郡猿投神社および尾張国葉栗郡玉井神社所蔵の古図と称するものがある。その描くところによると、濃尾地方は一面の海で、中央に中島郡の孤島があり、その南に日置、津島、戸田、長島、枇杷島などの数島が碁石のように点々とし、また長良河口に東、西、中などの六つの島があり、今の金華山の辺に岐阜山と注し、その西に磯島などを描いて、濃尾地方が広漠とした海湾であったことを示している」

 「県治水史」は、「濃尾平野の有史的変遷について口碑の伝うるもの2、3に留まらぬが、一つとして学理上信を措くに足るものが無い」とし、その例としてこの一文を挙げている。

 猿投神社の図は1830(天保元)年、千年前の古図として世に現れたが、海だったという各所に遺跡が知られて偽作との見方が強い。一方で、伊勢湾台風(1959年)による大水害を体験して、あれは千年前の洪水の図とみる人もいる。真偽はともかく、眼前に広がる風景は、まさにこの「広漠たる海」なのだ。

 「縄文海進の海は深くて海面が1、2メートル下がっても海岸線はそう後退しなかった。濃尾平野木曽三川が運ぶ土砂のたい積で形成されたが、今の姿になったのは近世の海面干拓以降。気候温暖化で小海進があった平安から中世まで、県南部の輪中地帯は海とも陸ともいえぬような所だったと思われる」と、名古屋大名誉教授の井関弘太郎さん。

 東征の帰途、熱田から伊吹山に向かったヤマトタケルは舟の上で、多度山に落ちる夕日を見たかもしれない。もうこのころは遠浅の海で金色の波の向こうに伊吹はあまりに近く大きく、田子ノ浦から見る富士、美保湾から見る大山のように聖なる山に見えただろう。

 伊吹山の神によって傷つき、養老で「足がたぎたぎしく」(疲れるの意味)なり、鈴鹿の能褒野(のぼの)で「大和し美し」と望郷の歌を詠んで死んだタケルは架空の人物だが、壬申の乱(672年)で挙兵した大海人皇子(後の天武天皇)は、この逆ル-トを進軍したとの見方もある。

 古代の養老は、元正天皇の養老改元(717年)や孝子伝説、七堂伽藍(がらん)など全国ニュ-スの発信地。想像以上に海陸交通の要衝だったのだろう。

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当時、この記事を読んだ私はあることを確信しました。
そしてあるときこれが私の道しるべとなり、3~4年ほど前から神社巡りをはじめました。

この地図は、伊吹山と本宮山と猿投山の頂上から眺めて描かれたのではないかと想像できます。
地図の信憑性についても、昭和34年の伊勢湾台風時に水没した水際線上に貝塚などの縄文遺跡が分布するため、やはり縄文海進と重なるようです...

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[PDF] 尾張古図と浪越伝説 - 名古屋市図書館
https://www.library.city.nagoya.jp/img/kensaku/osusume/nagoya/hoshi_201112_2.pdf




 

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追記:2020/08/26

musublogがサイバー攻撃を受け、ブログが閲覧不可となったため、はてなブログに移しました。
もう10年も前の記事ですが、それ以前からmixiで展開していたものをブログ開設のタイミングでまとめ直したものです。
ネットで閲覧不可となってもデータは救出できたので、そのままの状態で再現してあります。

コメント欄には尾張古図に関する貴重なやり取りが残されていました。
古代豪族の末裔を名乗る「邇波言壱」の書き込みが2012年9月からはじまり、閲覧不可となる2020年3月まで続いてました。
その対話部分のみピックアップしてまとめ、この機会に尾張古図のカラー版と手描き版も添付し、追録いたします。

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伊勢海(湾)

8世紀の聖武天皇時代に巨大地震で陸上化しました。
4世紀天皇族が上陸した場所で、天皇家の原境です。
安八麿アワチマ(後世安八)と呼ばれ国生み最初の島の有る場所です。
船木山の南西の長屋(長屋王の長屋は此処から)に上陸し橋島と呼ばれてました。(海橋立て、神社の神橋)
大垣は王垣で、天皇族に恭順した弥生人の酋長達が志津山に集合し旧東山道を通り邪馬台国征伐(征西)に向かいます。
道教信奉もあり東海地方(当時は中国大陸に東海は面していた)から入国するのが、当然でした。秦始皇帝から逃れた徐福も東海地方から入国しました。

邇波言壱 12/09/08 20:40


Re: 伊勢海(湾)

邇波言壱さん、書き込み感謝いたします。
わたしは富士山が噴火したときに隆起したとも聞いてます。
アワシマはアワチマで安八なんですね。
昼飯大塚古墳のある大垣は、大野で王の野ですね。
ぜひまた、いろいろ教えてください!

∞音∞_a.k.a._風*月 12/09/09 02:29


伊勢海2

中島はかなりデフォルメされており
弧宮(地震隆起後日本海側移動籠神社、現在は国府宮に残される)が存在したのです。
大国御魂神社の由緒書き参照して下さい。
大野とは縄文人語で内陸の地の意味です。
志津山に弥奴(美濃)の弥生人の王も合流しました。

現在の大垣は当時は伊勢海の中です。
地名も陸上化に伴い移動してます。

伊勢も正しい発音はイヒャで伊平屋とも同じで神拝所の意味です。

天武天皇中華思想で一文字名倭建です)は、伊勢海を水軍で北上し(関が原)も海で、松島(現在本宮山)を西から上陸し進軍しました。

邇波言壱 13/01/04 16:48


Re: 伊勢海2

邇波言壱 さま

いつも貴重な書き込みありがとうございます。
参考になるような書籍やリンクがありましたら教えてください。

∞音∞_a.k.a._風*月 13/01/05 01:36


伊勢海3

天皇家の原郷なる場所だったが、九州(九つの島からなる)の自治区を奪う為
伝承地も改竄されたのであります。

*鹿児島県羽島崎神社の太郎太郎祭りも移動したのです。

本巣の船木山、長屋は天皇族の上陸地であり・・改竄の見られる古伊勢湾図の中島郡の中島の北側の突き出た半島が其処で橋島(イナバ神社の神橋に表現)でした。

長屋王(実は親王)の長屋も其処から
*船木山古墳出土品は大陸と繋がる証拠を提示してくれるでしょう。

香具山も「伊勢の海の大岩」と有る通り
東海地方に存在するのです。

邇波言壱(古代豪族) 13/01/05 13:51


Re: 伊勢海3

ありがとうございます。

∞音∞_a.k.a._風*月 13/01/05 17:05


伊勢海4

物部氏桓武帝御世賜る姓、以前は物氏)の領域は三野後国造の土地に多治見あります。国見山の性格を持つ山があります。その麓には、内津があり有名な話が説話として残されております。(御存知だと思いますので省略)
内津から上陸した直ぐ東側に弥勒山(弥勒はメシヤ=救い主。が訛り伝えられたもの)が在りますが此れが真の香具山なんです。360度のパノラマに加え冬場のモンスーンが吹いた翌日の眺望は日本尊命、倭建命が読んだ情景が眼下に広がるでしょう。舒明が読んだとされる香具山の歌の情景も理解出来るでしょう。

邇波言壱 13/01/06 13:31


Re: 伊勢海4

ありがとうございます。
うつつですね。
わかるような気がします。

∞音∞_a.k.a._風*月 13/01/07 01:06


伊勢海5‐1

香具山が、移転したのは「藤原京」遷都の時で領域内に在る山に代えました。伊予風土記には二つ存在したと匂わせてあります。記紀には鉄が掘れた事も書かれており天神が鹿の犠牲の香りを嗅ぐ山でもあります。国見山とは天皇族の上陸地を臨む山であり、天神に此の日本に永住地を与えて下さった事に感謝する行事だったのです。春日山も移転して行った山であり名古屋市守山区東谷山が其れです。二つの神の山の中間に神領の地名が存在します。

邇波言壱 13/01/07 19:21


Re: 伊勢海5‐1

ということは、伊勢海5‐2につづくということですね。
楽しみにしています!

というか、いつのまにか連載形式になっているので、このコメント欄ではもったいない気がしてきました。
だけど、これもご縁ですのでこのままつづけていただけたらうれしいです。
折を見て、ブログにまとめて転載してもよろしいでしょうか。
それとも、この場所のままの方がいいのかな。。。

∞音∞_a.k.a._風*月 13/01/08 01:03

 


伊勢海5-2(資料編)

宜しくです。
転載はやめてください。

古事記「天の金山の鉄を取りて」
日本書紀「天の香具山の金を採らせて」
弥勒山山中に金神石碑存在
久米歌「神風の伊勢の海の大岩」
国思歌「倭は国のまほろば、たたなづく青垣、山隠れる倭し、うるわし」

http://page.freett.com/mirokunosato/→『弥勒山山頂の眺望』をクリック【旧香具山の眺望、海は後退したのですが・・「伊奈(否)波神社」、イナパ縄文土着民族語での意味は古い伝承の在る所の意味】して下さい。

邇波言壱 13/01/09 20:21


Re: 伊勢海5-2(資料編)

邇波言壱さま

承知しました。
ここでわたしがお聞きするのみとさせていただきます。

前にお聞きした弥勒山が、真の香具山なんですね。
地理的な位置もだいたいわかりました。

∞音∞_a.k.a._風*月 13/01/10 12:35


資料として

[PDF] 尾張古図と浪越伝説 - 名古屋市図書館
http://www.library.city.nagoya.jp/img/oshirase/2011/hoshi_201112_2.pdf

∞音∞_a.k.a._風*月 13/09/24 00:27


古伊勢海の地図の信憑性

例 古伊勢海の地図には、中島縣の北に生津が記載されて居るが、陸上化した際に出来た土地で、倭 弥照天皇の娘、浄庭斎王が巡行され中島宮に向かわれた場所で有る。記念的要素の強い物だ。

邇波言壱 18/02/10 00:13


古伊勢海の地図の信憑性

四極山を越えて見える笠縫の島とは安八麿の事で、津守氏の守備して居りました。懐疑主義が広まりを見せて居るので投稿して措きます。 終わり

邇波言壱 18/02/10 00:27


伊勢海(安八麿アワチマ)の濃尾平野

天平6年(734)

4/7 大地震(畿内七道地震では無い)
考古学上の発見からも理解可能です。

阪神・淡路大震災級の大地震が起きたとみられる事を、岡山大の今津勝紀・助教授(日本古代史)と隈元崇・助教授(地震学)が明らかに。

大阪を南北に走る生駒断層帯が動いた直下型、マグニチュード7.0~7.5で、7.3の阪神・淡路大震災並みの程度。畿内七道諸国に遣いを出す必要性は無いのです。

天平17年(745) 畿内七道地震

4/27 この夜、地震、三日三晩に及ぶと有り。美濃国、被害甚大。
5/- この月地震殊に甚だし。水も噴出。

大地大いに震い天下の民衆の家が倒壊し圧死者が多数出、山崩れ、川の閉塞、地割れが無数に発生。濃尾平野も陸地化する。

地震の5日後に、畿内七道諸国に遣いを出し被災状況を調べさせ、陵8か所と功績を有した大人の墓の被害状況を調査させた。さらに同日の招書では政事に欠くることなきよう注意し、徳と政治の欠失を省みる様に詔が出された。

邇波言壱 18/02/12 20:45


邪馬台ヤムトェ国の場所が特定出来ぬ訳

古代の日本は、中国の東の海上に存在し、当時大陸と向き合った東海地方は、古代中国から東海三神山の地と認識され、海岸線も当時は現在とは異なって居ると視なされました。

始皇帝を騙した徐福が流布、工作させたと思われ中国の歴史書に記録される様にさせた。

中国・会稽郡から日本列島を「会稽東治の東」とせ60から70度の方向誤認を誘発させて有り、即ち、会稽郡から実際の「東」を目差して進軍した。倭国がその方向に位置すると判断したのだが、日本列島の位置を誤認したため実際の東には存在し無い、と言う事です。

呉の孫権は将軍衛温と諸萬直を派遣し、武装兵1万を率いて海を渡らせ夷州と檀州(センシュウ) へ派兵。檀州は大海中に存在。

秦の始皇帝が徐福を遣わし、童児童女数千人を引き連れ、海渡し、蓬莱の神山と仙薬を捜索させたが、徐福達はこの島に留まって帰参せず。今日、代々子孫が伝わって数万戸にもなり、その州に住む者が時々会稽にやってきて、布を商ったり、逆に会稽郡に住む者が大風にあって漂流し、檀州に着く場合も有るという。しかし此の州は遥かな遠方に有り、
捜しあてることができず、ただ夷州数千の住民を連れ帰っただけに」為りました。

*夷州 は琉球の可能性が高い。会稽東冶之東」(会稽=北緯30度。東冶=北緯26度)に至る地域の東には沖縄県が存在。

逆賊征伐は失敗しました。

邇波言壱 18/02/12 20:52


安八麿アワチマ

安八麿(淡路島)

国産み神話の神秘の島

古事記日本書紀に拠ると、世界で最初に生まれたのが、淡路穂狭別(アワジノホノサワケノ)島 即ち淡路島です。


四極(シハツ)山うち越(コ)え見(ミ)れば
 笠縫(カサヌヒ)の 嶋(シマ)榜(コ)ぎ隠(カク)る
 棚(タナ)無(ナ)し小舟(ヲブネ)

 四極山を 越えて見渡すと
 笠縫の 島に漕ぎ隠れてゆく
 棚もない小さな舟が見える


*嶋榜ぎ隠るとは、周囲を水で囲まれた陸地」の意。

*棚無し小舟とは、両側に棚を付けない小さな舟の事。

*笠縫の島 公式所在不詳。
*四極山 公式所在不詳。

笠縫の島とは、津守氏が、監視する岐阜県本巣市の"下福島"で、346年には扶餘王族の7人が、一本松から上陸し軽見から伽羅の方向を眺めました。

軽見の海岸で

倭 旨は水平線を眺めて、言います。

此の地は空(韓)国に向かい
朝日の直刺す国
夕日の日照る国
此の地は良き地

上陸した島が下福島
西側の島を福島

と呼ぶのも約束事に為って居る訳です。

長屋王(実は親王)の名前の由来地で、古代伊勢湾の天皇族の真の上陸地です。当時の海岸線より海中だった場所に春来(町)が有るのは興味深いでしょう。

其の地域の北方(北方郷)とは、渡来して"来た方"の意味合いが有ります。稲葉郡(イナパ古い伝承の有る場所の意味)が、方県郡には渡来した"方々"の意味合いが有ります。

7人に因み七崎と命名された場所に天神
新盧(ヤハのシロ)が創建されます。神獣文銭、硬玉製の勾玉で新天地を戴いた事に感謝して祭祀を行って居りました。当時は禁足地でした。

倭 弥照天皇(桓武帝)が神社として建立しますと、居倉宮(元伊勢として、斎王で娘の倭 浄庭が各地を巡行され)で、立ち寄って行きます。生津から中島(一宮)の宮に向かわれました。

邇波言壱 18/02/12 20:56


継体帝は何処に居たか

即位待機で、天皇家原境の本巣評三野国に滞在した倭継大君(継体天皇)の御手製の薄墨桜も岐阜県本巣市根尾板所に存在し此の大君は、古事記に「淡海國依り呼び出された」と有りますが、此処では味蜂間の海の在る國の意味です。

※近淡海國(淡海)は近江です。遠江國は壬申戦後に、大倭王権新規加入国で、遠淡海國造です。
遠江海は、遠江国府(静岡県磐田市国府台見付で潟湖存在)

邇波言壱 18/02/13 06:43


福島の志津山(四極山)

四極山

四道将軍(後世の創作で、実は三道将軍)の出発地で旧東山道の北方に位置する志津(鎮)山です。

東山道に、先導 邇波 彦、扶餘王族 倭 得玉征西将軍。騎馬隊編成(邪馬台ヤムトェ国征伐軍)

北陸道に、扶餘王族渡来告知の使者 三国 稚子。

東海道に、扶餘王族渡来告知の使者 邇波 多加利。

邇波言壱 18/02/13 07:15
 
 
 
天香具山と御春山(春日山)の麓の蔓木邑

疑惑「 霞たなびく 」・「 鴎が飛ぶ 」?
海抜が低く小高い丘程度の、 奈良県 の 天香具山 では 有り得無い話 。外国人が来て 失望する有名な場所 です。海が当時存在して、天之香具山の麓迄、内津の入江が入って居た 伊勢の海の大石 (岩)が傍らに存在した 天之香具山 だけです。

*鴎(味蜂)の飛来地の味蜂間も近いです。
扶餘王族の上陸地として安八麿アワチマと8世紀に漢字を当て嵌めます。方県(縣)郡とは扶餘王族の「方々」の意味でした。方縣津神社の祀神は扶餘王族です。本巣は、本簀モトスで扶餘王族の皇位継承者が住まう場所でも有りました。

「久方の 天の香具山 このゆふべ 霞たなびく 春立つらしも」神人麻呂(柿本人麿)

「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 國見をすれば 國原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の國は」倭武大君(応神天皇)

「 國原は 煙り立ち立つ 」
とは…集落だけで無く窯業や製鉄等の産業も関係して居ます。眼下には、 蔓木邑 【 後世に大和國葛城郡にする 】が在り 春日山 も見えました。 訓原クニハラ神社が、師勝町井瀬木に有ります。

守山の地には勝川、町田、松河戸、堀ノ内表、六留六反田、神領縄境、大留荒子、大留井高上、南気噴等の集落跡に加え窯業等生産遺跡群が存在してます。
春日山(現東谷山)付近には、志段味(紙垂の訛化)の地名が存在し山頂側から上、中、下志段味と為ります。

遷座した具体的記述。
天から山が2つに分かれて落ち、1つが伊豫國(愛媛県)天山 アメヤマ となり1つが大倭國天加具山になったと「伊豫國風土記逸文に記述。

邇波言壱 18/02/13 09:13


大和三山と愛岐三山

山々が恋争いをしたと言う伝承が…、其の高さと、距離に問題。

三山と言い乍ら、並んで居らず、独立峰が二山有り、齟齬をきたして居ります。高さが必要なのに、無視されてますから、天の香具山の山を選ぶのに喧々囂々の論議が交わされた。実際に、どの山が高いかの議論された話です。

邇波言壱 18/02/13 09:16


大和三山と愛岐三山 2

大和三山の香久山の磐座には、4つの巨石が存在し相応しく無い。

伊勢の海の大岩(国見山)の付近には、奇祭「石上げ祭」が有り尾張富士275.04mと本宮山293mの山と山の背比べの伝承が、存在します。互いに譲らず頭上に雨桶を置き雨水が流れる方が勝ちと競い合ったと言うものです。

負けた尾張富士は、天女の姿で地元の人の枕元に現れ願い事をしたと言います。高さは遠方を見るのに都合が良い事を考えるなら伝承の発祥地は、別だと考えられます。

そう為りますと、大和三山の天之香具山は、多武峰から続く山裾部分で山地の端で152.4m(海抜75m)と高さは二番目です。畝傍山は独立峰199.2m(海抜70m)、耳成山も独立峰で140m(海抜60m)、と為り比喩的に、御互いの頭上に背比べの雨桶を掛けて置くには、距離が長過ぎで、高さも判別し易く必要も有りません。

一方、 愛岐三山 は、遠方から臨んでも差は殆ど有りません。弥勒山(真の天之香具山)437mは、道樹山429mと大谷山425mとが皆、尾根で繋がって居り…団栗の背比べみたいなので、頂上を切り開いて、遠方の見易さを調査し、何処が一番良いのか判定するのに時間を費やした訳です。

邇波言壱 18/02/13 13:10


追加

伊勢の海の大石(国見山)で在る天香具山【遷座後に弥勒山(メシヤの語原が、日本に入る迄にミロフ→ミロクと変化)に為る。(現在の岐阜県多治見市富士見町)】で奈良県に。

「神風 カムカゼ の伊勢の海の大石にや這ひもとへる 細螺 シタダミの 細螺の吾子 アゴ よ吾子よ細螺の這ひもとへり うちてしやまむ」日本書紀

神風とは、登場人物達が、遭遇した暴風雨に為りますが、神ヤハウエに導かれ(暴風雨)伊勢に到着したと言って居り、他ならぬ伊勢海での出来事です。

然して、此の歌から編纂関与したのが、景教徒(東方キリスト教徒))と判断出来ます。

詩篇18編1~15節参照。伊勢の海の大石=ヤハウエは私の大岩。私は其の元に避難します。神風=ヤハウエ、貴方の鼻息の突風に因って…と有ります。

大石とは、日本書紀で、此の歌の説明として「大石を国見丘に喩えたのである」とされて居りますから国見山の傍に有ると理解出来ます。更に内津の内々神社の奥には、巌屋神社が有ります。内々神社裏の庭園奥に、三大巨石が(中央の天狗岩、古事記岩、景向岩)存在します。

尾張名所図会』内々神社の条。
「大石を穿ちて壇とし甚だ険しくして登る事容易からず」
※大きいので只、一つの山と見られる。(奇怪な巌)
「這い登る蔦も悩むや天狗岩」
と詠んで72歳の横井也有 ヤユウ (時般 トキツラ )翁は進んだ(内津草1773年)

日本書紀の歌と同じ感想で、海だった時分は、細螺。内陸時代には、朝顔。と言う訳です。巌屋神社は、天岩屋戸に対応する場所です。

本殿背後に庭園、池の東西に出島が、在り中央に中島【蓬莱、亀島。三石…磐座(奥津、中津、辺津)と三大巨石】が、造られ滝の位置は天香具山付近を差して居ります。当時の此の場所迄、伊勢海が入って居たと無言の証をしてます。

邇波言壱 18/02/13 17:48


香具山の金(鉄)

倭国に到着した扶餘王族が、食事を提供(餐)された枇杷島(朝日)の方面の海から香具山が夕日に輝く情景で、場所を示す具体的な説明です。

金屋子神祭文に「朝日長者」が砂鉄 コガネ を吹けば鉄の沸く事限り為しと記載されて居る様に「金」が鉄だった時代は遥かに長い。

春日井市東北丘陵一帯の等高線80mライン上に黄金伝承が。

朝日射す夕日輝くその下に鳥の松いけたる金は五万両。

西山製鉄遺跡【五万両山-大草城址中間。下原古窯(味美、白山、御旅所、二子山古墳に供給。猿投窯と技術者往来。須恵器窯)背後高台】金谷浦の地。現桃花園団地一角。

西山の畑地から鉄滓 スラグ 出土(地表面採取可能)磁石使用で、相当量採取可能。新日本製鉄(株)名古屋製鉄所依頼の分析所見は…。酸化鉄が多く。製品としては、玉鋼はチタンを含み強靭。鉱滓残留。亜鉛Zn、銅Cu、マンガンMhと砂鉄成分酷似から原料は砂鉄。倭明の剣一千口分採取地か。

朝日射す夕日輝くその下に黄金三升。
狩山戸製鉄遺跡。
(小牧市桃花台丘陵。高根のホウトク産業付近)

白瓷系土器破片も出土。
天之香具山麓高蔵寺【高倉山から変更されると、南東の山が高座 タカクラ 山と付される。高倉明神→高倉寺→高蔵】の高森山(山頂は古墳)。高座山の麓に五社大明神に天目一箇 アマノマヒトツ 神(金属製鉄神。砂鉄使用製鉄)を祭る。

高森山には、マンガン鉱山(狸掘採掘跡現存)
鉱山跡に接して鉄分の濃い分厚い褐鉄鉱(別名鬼板層・高師小僧。水酸化鉄の鉱物集合体)の脈が浮出。

山下(高蔵寺高校一帯)造成中に沢山の高師小僧(褐鉄鉱)で露頭としてはかなり大きい。
製鉄実験で、充分用を成す事を証明(褐鉄鉱…鉄素材)
高蔵寺中学校裏側で過去、豊富な砂鉄層が在り磁石で、幾らでも砂鉄が採れた。
多治見地区(弥勒山=天香具山)にも黄金(鉄)伝承存在(金山彦の石碑)。

西尾道永居住の大草城址から谷一つ隔てた所にも製鉄遺跡が…。

邇波言壱 18/02/14 06:53


香具山祭祀と地神祭祀

東谷山(御春→尾治→尾張山)から天香具山へは、鹿乗の船着き場から、犠牲の鹿(花鹿)を乗せて向かいます。

忌 文山は、645年に倭 建の即位式の為、三野後国の香具山に神幣賦課。

神宝(鏡、玉、鉾、楯、木幣、麻)調達氏族。天之香具山は、字の通り天の神に香を具える山で、神が香を嗅ぐ山でも有ります(創世記8章20~21節)。

頂上を切り開いて、祖先の上陸した地を見て(360度のパノラマ。りを聞き、天の神(ヤハウエ)に感謝して羊の犠牲(寒羊を持ち込み犠牲にしてましたが、草を食い尽くす為、鹿にされます)を捧げる山だったのです。祭壇は、切石が使えず、天香具山の土から煉瓦を作り【天香具山の土で平瓮ヒラカ(白瓷)】積み上げた物です(出エジプト20章24~25節)

戦勝祈願の際にも、同じ行為をしました。

紀記には、天香語山命が、高尾張(御春山)の対岸、高倉山*(天香具山)に降臨して往来したと言う。

*愛岐三山は、一ノ倉、二ノ倉、三ノ倉と呼ばれて居り物部氏と関連が有ります。
東谷山の傍らの高倉山は別です。

御春山(現東谷山)には、磐座多数。井戸の水位は、伊勢湾潮位に関係して居ると伝承存在。天之香具山に対して此方は地神を祀ります。

尾張風土記逸文には、建岡君(邇波彦。天香山坐櫛真智命神)が美濃國の花鹿山(天香具山)に登頂し、賢樹(榊)の枝で縵カズラを作り『吾の縵が落ちたところに神あり』(ト事占兆)と、言って投げ、縵の落ちた方向に、地神を祀る場所(御嶽ウタキ祭祀施設)として居ります。

其れが由来となって縵の里と言うと、有り蔓木(葛城)邑と葛木山ですが、扶餘王族が来たのを邇波彦が見て迎えに出たのが4月故に御春山(春日山)と呼ばれます。春日部の発音は粕壁の意味合いです。

邇波言壱 18/02/14 21:23


最後に三野前国の初国造の系譜

倭 旨ー三野 倉富(宗慶大塚古墳 全長63m)ー奴美(足尼)ー佐岐(大人 足尼)ー比古(大人 足尼)ー那美古ー達奈弖(三野前国造)ー忌 豊止美(斎部氏祖) 大人とは合議政治の実力者。
蘇我馬子」も大人
*大臣扱い(臣下)だが、逆です。
天皇は大君で大人の君です。

邇波言壱 18/02/16 08:05


尾張国古図に追加

中島縣と邇波縣の繋がりも密接でしたが、図中の一宮尾崎に関しての矛盾を正して措きましょう。

籠宮が有り、陸上化した後に邇波国(→旦波→丹波、丹後に分割)に移動しました。天橋立の神社です。籠宮から国府宮です。

江南の尾崎が一宮に中島に有るのは、陸上化した際に海底地形(自然堤防)をつたい歩きすれば行ける証拠を記載した訳です。

では此にて完結させて戴きます。

邇波言壱 18/02/16 09:03


絵図投稿不可能故、追補

尾張国古図に指摘

上部の福島(孤島で無い)に志津山有り、川を隔てた西側に下福島有り 狭間記載の部分が天浮橋
橋は異世界を繋ぐ(大陸との懸け橋)

地名は近畿七道巨大地震の伊勢海の陸上化に伴い、遷座に伴い移動、読み変化等。

御春山(春日山)→現在の春日町奈良県春日山(新益京地内)
大垣(福島)→現在の大垣市
安八麿(下福島)→現在の安八郡
浮野邑(枇杷島・朝日)→九州うきは・現在の枇杷島

等 以上完結。

邇波言壱 18/02/17 06:40


邇波言壱 さまへ

いつもありがとうございます。
かねてからの疑問ですが、わたしのこのようなブログへ貴重な投稿コメントをいただき不思議でなりませんが、感謝しております。
このブログ(musublog)の仕様もあまりよくなく、アクセスし辛く、管理もし難く、コメント欄へ画像も追加出来ず、邇波言壱さんの投稿がもったいないくらいに思います。
しかし、あえてここに投稿くださるということは何か意味があるのでしょう。
そう思ってわたしも一生懸命理解しようと拝読し、地元のことばかりなので地理的も把握することが出来、わたしの感じている歴史に肉迫する内容が書かれていたりと興味津々で読んでおりました。
完結と言わず、また時間がありましたらいつでもお越しください。
お待ちしております。

∞音∞_a.k.a._風*月 18/02/17 12:47
 
 


壱言 追加

有難う御座ゑます。然し完結します。

尾張国古図に追加
孤島の福島の位置には、現在の大垣が移転します。養老元年では無い証拠です。

船木山の西側の長屋は、「長屋王」の長屋で有り粟田真人で粟田郷です。

軽海は、安堵郷です。春来は海の中で無い間違い(分かりにくい)鹿立郷、一本松は船木郷です。国領は栗栖田です。

御元気で。

邇波言壱 18/02/18 20:06


日本人の遺伝子

YAP遺伝子のDNA
50% ヤペテ系 朝鮮 中国のO系列
40% イスラエル兄弟エサウの子孫D系列(大国主)
10% イスラエルの子孫E系列(天皇)とハム系(恵比寿..蛭)

邇波言壱 18/02/18 20:57


態々 返答戴き。

有難う御座ゐます。御礼ついでに、福島の孤島の位置に現在の大垣が来ます。

日本書紀古事記も、倭 弥照天皇の時から改編され、記述に合わせ、公文書も蔵人所(機密事項取扱)で改編されて行き(例外やヒントは有り)ます。

扶餘王族のトーテムは鹿で有り、345年の1人、346年の4月の7人渡来で合計8人(八王子・八柱神・八大龍王)を運ぶ事に為った船団(金船→貴船)が、倭得玉(345年9月)倭旨、倭美穂、三野倉富、倭仁、御春豊玉、倭豊日、日奉益継と一本松(船木郷)に上陸し、春来(鹿立郷)で整列し、軽海(安堵郷)で地平線を眺め出発します。

以上です。

三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」明年、子扶餘依羅立つ。衆数千を率いて海を越え倭人を定めて王となる。と有る通りです。

*長屋親王(長屋王)の誕生地は、粟田郷の長屋です。

邇波言壱 18/02/19 23:07
 
 
邇波縣に小野氏の本拠地

現在の犬山にも内陸の海が有り、大野山が有りました。邇波氏は合議政治により余所者を招いて傀儡王を立て実質の王に君臨した大国主です。

小野氏は大野氏で読みも"おおの"でしたが、多氏が、゙おおの゙の誉れを受けた後小野と書いて"おおの゙に格下げされ軈でおの"読みと為ります。

邇波言壱 18/03/20 05:23


邇波縣に小野氏の本拠地 2

海 阿知の子、大野 大樹が大野氏を名乗り、その子が有名な小野妹子です。日本書紀古事記は全体が神代化され実名で記載されてませんので、由来から御伝えします。大樹に妹が居られ小島子と言う美しい娘が、敏達天皇の妃にされます。大樹は妹と近親相姦に有り妃と為った後に生まれた子に敏達天皇は、自分の子では無いと主張され発覚し激怒。問題を聞きつけた母親(稚綾媛)が敏達天皇を諌め許させます。実名は大野 毛人と言います。

邇波言壱 18/03/20 05:39


壬申革命(後の壬申の乱)はタイカワ(希望)の戦でした。

倭 建天皇(天武帝)の軍は桑名から尾治(尾張)氏の水軍を使って移動しました。彼の配下に居た村国 男依は海氏で阿知の子孫、上毛野 三千です。

邇波言壱 18/03/20 06:24
 
 
倭 建天皇(天武帝)
 
邇波言壱さん、風月さんへ

ヤマトタケル天皇 ヤマトタケルは、何人かいて、その一人が天武天皇なんですか?
藤井まどか 18/03/21 22:36
 
 
ブログ主のメモ
 
イニシキイリヒコ、ヒバスヒメ、日子坐王、丹波道主、ヤマトタケル、八坂入彦、八坂入姫…。
2010年前後の神社巡りをはじめた頃に直感でたどり着いた、方県津神社や伊波乃西神社、景行天皇の仮宮だった久々利のククリ宮も、それぞれ共通する一族の神社伝承を伝えていました。
なぜ岐阜のこのような辺鄙な土地に住んで開拓したのかまったくナゾでしたが、尾張古図の上から右上にかけての重要な湊(古伊勢湾の海岸沿い)だったであろうということは感じておりましたが、その先は何の手がかりもありませんでした。
邇波言壱さんによると、その一族こそが扶餘王族であり、尾張古図との関連もだいぶわかってきました。

方県津(かたがたつ)と丹波の日子坐王一族
http://www.musublog.jp/blog/fuhgetsu/?entry_id=53616
久々利の八坂入彦と泳宮(ククリノミヤ)の八坂入姫
http://www.musublog.jp/blog/fuhgetsu/?entry_id=5731
日子坐王と五十瓊敷入彦
http://www.musublog.jp/blog/fuhgetsu/?entry_id=5782
伊波乃西神社と日子坐王の墓
http://www.musublog.jp/blog/fuhgetsu/?entry_id=5787
 
∞音∞_a.k.a._風*月 18/03/22 21:08
 
ヤマトタケルは平安時代の人ワタケルが正しい
 
倭 建天皇(天武帝)
邇波言壱さん、風月さんへ

ヤマトタケル天皇 ヤマトタケルは、何人かいて、その一人が天武天皇なんですか?

解答は平安時代の愛智氏一族の日本氏がモデル

倭 武大君(応神)
倭 建天皇(天武)
倭 讃大君(景行)
で4人の中で、倭 聖大君(聖徳太子モデル)の子の倭 建です。
蘇我氏蘇我も曽我兄弟の仇討ちから祖先に与えられた氏族名です。
例 悪源太義平は三浦 義明で右近の橘、左近の桜の内裏は鎌倉時代中期以降です。
朝廷の古代史改編作業は、室町時代に迄及びます。
 
邇波言壱 18/10/17 08:40
 
 
イナパとは古い伝承の有るところの意味。
 
神社名には、否む波の意味が有り、陸上化して扶餘王族の上陸伝承の継承が消失したの意味。神橋が人の通れ無い橋なのは、陸上化に因る。外世界と繋がる橋の消失。伝承地は日本海側に。後に海から天に、大垣の、天橋立伝承へ。
 
邇波 言壱 18/10/21 00:10
 
 
 
 
扶餘王族
 
*長屋 親王(長屋王)の誕生地は、粟田郷の長屋です。詰り粟田 真人は長屋 親王です。

長屋 親王の兄弟は、長 親王(鈴鹿王)です。
 
邇波 言壱 18/10/29 19:21
 
浪越伝説
 
名古屋 由来

名護 (沖縄県)
名子 (福井県 敦賀)
奈胡 (福井県 小浜)
奈古 (山口県 阿武)

砂浜海岸に在る魚子ナゴ(漁夫)屋
 
邇波 言壱 18/11/01 05:50
 
烏桓=藤原(前期藤原)、藤原=賀茂(後期藤原)
 
賀茂 忠行-茂能-忠順(藤原 良房養子、基経)-藤原 忠平-師輔-兼家-道長・・
 
邇波 言壱 18/11/01 06:00
 
 
あゆちって
 
愛知県の愛知 由来

土着邇波氏(縄文人、エドム系)言語で、矢の多い所の意味。武器庫。

変遷 (郡号)

吾湯知→年魚市→年魚道→相津→愛育知→阿由知→愛知→愛智→愛知
 
邇波 言壱 18/11/02 20:37
 
Re: 扶餘王族
 
邇波 言壱 さま

高市皇子の長男(天武天皇の孫)、長屋親王の誕生地“粟田郷”は、福井県永平寺の近くなんですね。

“石木部里はこれまで知られていなかったが、長屋王家木簡の出土によって初めて明らかになった…”
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/4-01-01-02-09.htm

鈴鹿王は、高市皇子の次男ですね。

大宝律令の編纂に関わり遣唐使でもある粟田真人が、長屋親王だったんですね。
 
∞音∞_a.k.a._風*月 18/11/04 19:34
 
長屋 親王
 
左様です。長 親王の子は三緒 助雄で其の子は、巻雄(空海)です。
 
邇波 言壱 18/11/05 05:29
 
扶餘 王族
 
倭 聖 大君-建 天皇(天武帝)-稚建 大君(高市)-長屋 親王-長宗

長屋は、三野国での誕生です。
「菅原 道真」も東海地方での誕生です。
 
邇波 言壱 18/11/07 06:21
 
Re: 扶餘 王族
 
“倭 聖 大君”が、聖徳太子のモデルとなった方ですね。
その子、“倭 健 天皇”が天武天皇で、ヤマトタケルでもある。
 
∞音∞_a.k.a._風*月 18/11/07 10:08
 
 
長屋親王繋り
 
左様です。

烏桓直系 倭 友(称制。所謂天智)-湯原-榎井(光仁帝)-弥照(桓武帝)

蔓木 毛人(蘇我 入鹿)-宗形 鳥萬呂-綿萬呂(吉備 真備)-広(吉備内親王)

長屋親王の正妻 広。

倭 建天皇-稚建大君-長屋親王-長宗

宗形 綿萬呂の娘広は長屋親王の正妻。
長屋親王が殺害された後、皇位継承の正当性を高めるべく、倭 弥照は、宗形 広と結婚して蔓原親王(葛原親王)を儲ける。
 
邇波 言壱 18/11/07 13:13
 
ブログコメント [ページ8]
 
 
長屋親王
 
藤原 文忠(不比等)は倭 建天皇崩御後、庄子婦人(息子は稚建)と結婚して藤原4兄弟を儲けます。

山邊 安萬呂の娘、河子は長屋親王との間に高階 峰緒、是子、貞子を儲けます。

正妻の宗形 広には長屋親王との間に、長宗、広宗、栗原を儲けますが、長屋親王と3人の子等は暗殺されます。

長屋親王と阿倍 大刀自の間には、安継、清淵、易野(賀茂女王)

藤原 長蛾子と長屋親王との間には、
良長、良雄、良氏、瀧子を儲けますが、長屋親王暗殺計画の為に親子は長屋親王とは離れて住み難を逃れます。
 
邇波 言壱 18/11/09 10:30
 
 
訂正
 
山邊 安萬呂の娘・・・
娘→孫娘。これで全て終わります。
 
邇波 言壱 18/11/09 12:27
 
 
尾張国の国造
 
御無沙汰してました。 追加させて戴きます。

補填 極秘

尾張国の国造系譜。

宇麻志摩治=浦嶼氏

浦嶼 草香―①尾治 栗原―②多々見―乎己志―乎機与―尾張 稚子(大隅)

邇波氏

邇波 彦(邇波国=丹波)―矢田彦(出雲国)―彦佐須伎(出雲国。津守的)―彌母里(出雲国。葛城 円)―荒田(出雲国の国譲り→科野国造)―依網(筑紫国造)―③蔓木 垂見(尾治国造・蔓木縣有り)―④摩理勢(蘇我馬子。尾治国造・蔓木縣有り→蔓木国造)―毛人(蘇我 入鹿。蔓木国造)―⑤神威 毛人(尾治国造)

摩理勢以降朝廷直轄地
一時、神威 毛人に渡るが、朝廷直轄地化しました。
 
邇波 言壱 19/04/23 05:45
 
 
宇麻志摩治=浦嶼氏
 
浦嶼氏

倭 得玉―浦嶼 弟彦―金―坂合―草香

草香の姉妹 間子は、倭 王済の妻、子女等は 興、広、関です。

広は、倭王武(応神帝)の妻、関は倭王継(継体帝)の妻です。

倭王の二人は、伯済 毗(百済毗有)の息子で扶餘王族に入婿しました。

異母兄が傀儡王として即位しますが、危険人物と判断され合議政治の実質的な王、邇波 彌母里から暗殺指令が出ます。未遂に終わり逆に館に立て籠り火矢で焼き討ちに合います。 彌母里の兄弟、明国彦は怒り、倭 武は反撃され苦境に立たされます。

物 目は、倭 武を支援し邇波 明国彦を暗殺して、明国彦配下の精鋭を父坂合が組織したスキタイの矢の部隊で壊滅させ香具山の管理者と為ります。

浦嶼 弟彦―金―坂合―物 目 (物部氏 遠祖)
 
邇波 言壱 19/04/30 07:58
 
大人と大君を繋げた女系
 
日本に帰化した倭 旨(初代大君)は娘美穂を邇波 彦に嫁がせ姻戚関係と為り、竹野が生まれますと、旨の息子の仁に与えられ、讃が生まれます。

邇波 彦の孫、矢田彦の子には彦佐須伎が居り娘の志保は讃との婚約が為されてましたが、水銀中毒で亡くなり、讃の息子の隋(平西将軍。大宰府建設)に嫁ぎます。

倭 隋の子済は、浦嶼 坂合の娘、間子と結婚して子女、興、広、関を儲けます。

伯済 毗(百済 毗有)の王子、昆と紀の異母兄弟が、扶餘王族の入婿に為り帰化しますと、昆が倭 武、紀が継と改めます。

邇波 荒田(大荒田命)は、兄の武に即位をさせますが、父の彌母里(葛城 円)は、危険人物と判断して暗殺指令しますが、未遂に終わります。

邇波 荒田は娘の真稚を、興に与えます。 興は、伯済の救援を掲げますが、殺害されます。興には明が生まれてましたが、即位を辞退し続け裏方に撤します。
 
邇波 言壱 19/04/30 13:18
 
 
大人と大君を繋げた女系
 
倭 継大君(継体帝)が殺害されますと隠棲して、合議政治の大人の立場を得るべく土地を開拓し池を作り奔走します。

尾治の国造に蔓木 垂見を
推挙しますと、垂見は娘の広子を明に与え、明は老年に尾治氏の土地を訪れ決意、垂見は倭 敏を毒殺させ大君として、明を即位させます。

垂見の子、摩理勢は明の子で娘小手子の婿、峻大君に尾治国造(直轄地)から蔓木国造にされて、憤り殺害させます。

峻の息子、聖は叔父の孝が即位すると京に戻され太子として孝大君を補佐します。

孝大君の娘佐富が、年頃に為る迄、結婚は御預けでした。
遣隋使の派遣が失敗すると、孝大君は息子の豊原 有秋(有間皇子)を将軍として、派遣し大宰府に待機させますが、待機中に摩理勢に殺害されます。
 
邇波 言壱 19/04/30 13:23
 
大人と大君を繋げた女系
 
聖は即位して遣隋使の派遣に成功します。外交の窓口の摩理勢も大人として、隋の役人と会いました。

聖大君は、隋に援軍を出させる事に成功しますが、隋は滅亡します。伯済の舒(舒明帝)は自らが大君に為らねば伯済の救援は為らぬと策略を巡らし、邇波氏の賛同を得る為に尾治国造の地位を蔓木一族に渡す様に迫り戦争を誘発させ二分する戦に為りました。

聖は結婚生活に入ったばかりで彼女は妊娠してました。
野国造の洩矢 宮萬呂が聖大君の大将として到着する前に先制攻撃を受け物 多治見(物部 守屋)が戦死して、大伴 奈羅古の助言を捨て尾治国で再起を図らず捕縛されますと、舒は聖大君を毒殺し、蔓木 摩理勢の怒りを買います。

直ちに聖の姉、錦代(推古帝)を即位させ、国家非常事態に入ります。摩理勢は尾治国を再び戴きたいと申し出ますが拒否されます。
 
邇波 言壱 19/04/30 13:28
 
大人と大君を繋げた女系
 
摩理勢の後、毛人が大人として治め始めます。 佐富の子、建が隠棲に三川に旅立つと、舒は佐富と結婚して大君の立場を得ます。

舒大君も、伯済救援計画や命長の元号を選択し、毛人の怒りを買い殺害されます。

直ちに毛人は、佐富を擁立して即位させます。佐富は、毛人の子、神威 毛人に尾治国造とします。 建は、豊原 有秋の娘、道子と結婚します。 一方、佐富の息子の建の即位に備えさせ毛人は、娘の庄子を与えます。

建の即位式の日に自宅から、法興寺に向かう途上の道端で伯済 翹岐に暗殺されます。 倭 建も、舒の息子、友に軍兵に包囲され助命の為に妻道子を要求され、友に道子(額田女王)を渡します。

毛人の後、舒を支持して聖大君と戦った蔓木 小祚が、大人として治め始めます。道子を即位させて、友は慎重に称制として発言力を得ます。

邇波 倉梯萬呂は大人として、事態の悪化を塞ぐべく老年の豊原 有秋を大君に立てる為、大規模な兵力を集める準備に掛かりますが、発覚して
奇襲され殺害されます。

豊原 有秋は主犯格として死刑にされ、倭 友は慎重に計画を進めさせます。
 
邇波 言壱 19/04/30 13:31
 
大人と大君を繋げた女系
 
摩理勢の後、毛人が大人として治め始めます。 佐富の子、建が隠棲に三川に旅立つと、舒は佐富と結婚して大君の立場を得ます。

舒大君も、伯済救援計画や命長の元号を選択し、毛人の怒りを買い殺害されます。

直ちに毛人は、佐富を擁立して即位させます。佐富は、毛人の子、神威 毛人に尾治国造とします。 建は、豊原 有秋の娘、道子と結婚します。 一方、佐富の息子の建の即位に備えさせ毛人は、娘の庄子を与えます。
 
邇波 言壱 19/04/30 13:33
 
 
大国主と大物主
 
大国主と大物主は政治的な政略結婚の関係

大国主は花婿(田縣神社)
土着民の豪族邇波氏
合議政治の実質的な王(大人)

大物主は花嫁(大縣神社)
渡来の扶餘王家
渡来の烏桓王家
合議政治の傀儡王(大君)

表記された直接的氏族名

宗形(宗像)氏・・・ムナ(任命)、カタン(花婿)
邇波氏直系の蔓木氏系、宗形氏

源 神野天皇(嵯峨帝)から改竄され始めた
記紀の主張に沿い宗形 千世(滋野 貞主)を難波氏へ改姓させます。

源 定省天皇の子、清氏を筑前国司として下向させ猶子として大宮司の補佐をさせ難波に転封して宗形改姓します。

こうして、磐石にして行きます。記紀の主張通り蔓木氏を亜細亜月氏の都、葛城へと変更し渡来系の主張を強化します。 大人を大臣に変え臣下扱いにします。 改竄は後々迄、続き各方面の公文書の書き換えを行います。

書き換え不可能な物は処分が続き中身の空の伝承に置き換えて行きました。
 
邇波 言壱 19/05/07 22:43
 
ブログコメント [ページ9]
 
 
宗形は蔓木氏
 
邇波氏直系の蔓木氏系、宗形氏

蔓木 垂見 尾治国造
蔓木 摩理勢 蔓木国造
蔓木 毛人 蔓木国造
宗形 鳥萬呂 宗形国造
宗形 綿萬呂 宗形国造
太政大臣(吉備 真備)
宗形 滋光 太政大臣 967ー970
宗形 千世 太政大臣 978ー989
秘府略1000巻 撰集
源 清氏を猶子とする
難波改姓 難波転封

源 神野天皇(嵯峨帝)から改竄され始めた。
記紀の主張に沿い宗形 千世(滋野 貞主)を難波氏へ改姓させます。

源 定省天皇の子、清氏を筑前国司として下向させ、太政大臣の宗形 千世の猶子として大宮司の補佐をさせ難波に転封して宗形から改姓します。
 
邇波 言壱 19/05/11 13:05
 
入鹿屯倉
 
蔓木 垂見(一言主神)の大人が、尾治国造。 倭 幼武大君(欽明帝)が補佐してた時に入鹿屯倉を設置しました。 入鹿とは、怒る(イ ルシカ)の意味が有ります。

倭 継大君(継体帝)を殺害させた後、武大君の子を傀儡王に擁立する立場に有り、尾治(蔓木)山で鹿狩りをして、幼武の素質を見極め大君としました。

鹿(狩り)に拠って(君として政権に)入ったの略です。
 
邇波 言壱 20/03/30 13:12
 

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END

太陽とシリウスの伊勢志摩巡礼★総集編 〜888スバイラル直前☆七夕スペシャル

[mixi] 日記(2008年08月07日22:48)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=894873837&owner_id=4857509

musublog(2008年08月07日22:48)
http://www.musublog.jp/blog/fuhgetsu/?entry_id=9174

 

 

 

 


2008年8月7日(木)/文月七日月(立秋+七夕)

昨日は節分で土用が終わり、今日の太陽は立秋、月は七夕となった。
春分から3/8年、立春の正月から半年経ったふり返りと新しい始まり。
そして、棚機つ女のタナバタ祭り。
その祭りに使った飾り竹や七夕舟を川に流すのが七夕送り。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=21907452&comm_id=1110372

七夕送りの一環で、体の中に住み着いた睡魔を神に託して送り流してもらう「眠り流し」が青森のねぶた祭り
ネブタより、弘前の縄文っぽいP音な「ネプタ」の響きの方が好きです。
夏越祓えなど夏祭りすべてに共通しますが、このお祭りからも火と水の調和を感じます...


宇宙とつながる私たちに天体の動きがどう影響してるのか、今日がいったい何の日でどんな意味を持つのか、まだまだ私には知るよしもありません。
でも、ここ最近の出来事やキーワードから自分自身を振り返り、感じたことを思いつくまま気ままに、訪れた土地と歴史、時間と空間、天体と内観する宇宙を行ったり来たりしてみよう!!!



8月7日は7月7日で、明日は888の日。
この2日間はいろんなところにエナジーが溢れて盛り上がっていますね~♪

例えば、近場で行けそうで行けないんだけど...

7~8日は三河でち~こさんのワークショップ!
http://mixi.jp/view_event.pl?id=33115834&comm_id=217035
8日は名古屋でどんと祭り!
http://mixi.jp/view_event.pl?id=33351249&comm_id=2195265


他にもいろいろ気になる動きがあちこちでいっぱいあるけど、挙げたらキリがありません^^;

そんな中でも、気になる極めつけは四国の盛り上がりぶり!
7月のヒライアカル・ライジングから8月いっぱい、クマ球磨さんの...

四国環境巡礼88
http://mixi.jp/view_community.pl?id=3416253
http://mixi.jp/view_event.pl?id=31106970&comm_id=1134296


8月8日8時8分8秒


この瞬間にいったい何が起きるっていうのか~???
ワっクワクっドっキドキで注目していま~す@@@

とにかく、なんだかすごい1日となりそうな予感。
褌の紐〆直して、その瞬間を迎えたいです!!!



とまぁ、前置きはこれくらいにしてここからやっと本題です(笑)

ヒライアカル・ライジング(heliacal rising)とは、太陽に次ぐ明るさを持つ恒星シリウスが、父なる太陽と同時に東の空へ昇ること。
このときナイル川の水位が上昇を開始します。

 

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冠水した大河は氾濫し、やがて肥沃な大地として潤います。


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この水位変動を基に1年を365日と定めたエジプト暦。
そのシリウス(ソティス)周期は1460年です...
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14359625&comm_id=1110372

当時のエジプトではシリウスのことをソティス星と呼んでいました。
英語では「Dog Star」、中国では「天狼」と呼ばれ、星座ではおおいぬ座の鼻先にあります。

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アジアでは昨日までが夏土用でした。
この土用を英語では「dog days」といい、盛夏を意味します。
もちろんシリウスに関係してて、犬星が太陽と共に出没する7月3日頃~8月11日頃をさしています。
だからちょうどヒライアカル・ライジングの時期とも重なるわけです。

もともとシリウスは、ギリシャ語で「焼き焦がすもの」という意味なんです。
現在は青白く輝いていますが、バビロンの粘土板をはじめ古代ギリシャやローマでも、シリウスは「赤い星」だったことを伝えています。
天を焼き焦がすという尾張富士の火振りもそうだけど、青森のネブタ祭りも本質は火祭りにあったり、時期的にも関係してそうで気になります...
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=891563592&owner_id=4857509


エジプト暦の第1の月はトト月。
太陽を先導する犬星シリウスは、神格を帯びた犬神となります。
古代エジプトのトト神(トート神)はもともと犬頭でヒヒ姿でした。
時代や王朝と共に、その姿をヒヒの頭やトキの頭へと変容していきます。

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古代のエジプト文明は、ちょうど日本の縄文時代と同じ時期。
東の果ての古代文明、縄文の太陽信仰とつながっていたとしてもおかしくありません。

天孫を先導した太陽神サルタヒコ。
赤ら顔のその容姿からも、赤い輝きのシリウス(焼き焦がすもの)やトト神の姿となんだか重なって見え、私の中ではつながった感じがしています。

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伊勢の海人族が奉祀したサルタヒコは、なぜかその海で比良夫貝に挟まれ溺れ死にました...
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=883539102&owner_id=4857509


ギリシアの聖人クリストフォロスは犬頭の巨人。
犬神キュクロプスは一つ目の巨人。
犬星は太陽の横で輝く一つ目のような星。

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そのキュクロプスは、ギリシャ神話の雷と鍛冶を扱う神様。
英語読みでサイクロプス
サイクロンの語源です。
台風とか、凄まじく吹き荒れる風のイメージ。

そして、日本のダイダラボッチ(踏鞴法師)も一つ目の巨人です。
志摩ではダイダラボッチ伝説の残る大王町へ行き、大わらじを流す浜と波切神社へ足を運びました...
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=890847492&owner_id=4857509

志摩地方では「ダンダラボッチ」と呼ばれ、古くは「沖の一つ目」と呼ばれていました。
このダンダラボッチが祀られているという多度大社の天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が、伊勢の忌部氏の祖というのも気になります。

それから、波切神社には金山彦神も祭られています。
しかし製鉄神である金山彦は、鍛冶神である天目一箇のダイダラボッチと非常に仲の悪い神として知られています。
なぜなら天目一箇を追い出した地方の神社には、必ずといっていいほど金山彦が祀られているのです。
伊勢と多度大社から山脈沿いに北へ行くと、美濃一宮の南宮大社に金山彦が祀られています...
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=828844775&owner_id=4857509


大王町には須賀という地名があります。
記紀神話ではダイダラボッチが住んでいた場所であり、スサノオが住んでいた場所ともされています。
伊勢神宮は北を向いていますが、自然とその先にある津島神社スサノオと真清田神社のニギハヤヒスサノオの子)も拝んでることになります...
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=884168705&owner_id=4857509


ダイダラボッチは鉄の産地に多く伝わる伝説として、出雲を中心に日本全国に伝わっています。
その多くが、ヤマトタケルの神話が残る地域となぜか重なっているんです。

ヤマトタケルが伊勢の斎宮である倭姫命を頼ってきた際、志摩の大伴部氏と共に東国へ赴く事となります。
この時、ダイダラボッチが作ったといわれる天の叢雲の剣(草薙の剣)がヤマトタケルに手渡されます。

こうして天叢雲剣スサノオからアマテラス、倭姫、ヤマトタケルへ引き継がれる。
そして伊吹山へ向かう前のヤマトタケルは、草薙剣尾張のミヤズヒメへ手渡している...


というわけで、このところ気になっていたキーワードが次々につながる不思議な旅でした!!!
この続きはまたいつか、どこかの旅で出会うのでしょうか...

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ところで、今日は嬉しい知らせがありました!
昨日精密検査を終えた父の検査結果。
なんと、何も問題がありませんでした。
いやぁ~気づきをいっぱいいただいたとはいえ、えらいお騒がせいたしました~(笑)

しかし喜ぶのもつかの間で、今朝私の叔父(母の兄)がこの世を旅立たれました。
いろんな巡り会わせを感じております...

 

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昨日は広島でしたが、明後日は長崎。
すべての調和を祈る気持ちへシフトしたいです!

8~9日にかけて富士山頂で行われるヨシマルさんの平和の祈り。
それに合わせ、そのとき私がいる場所からも祈りあわせをさせていただこうと思います...

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伊勢の太陽サルタヒコ

[mixi] 日記(2008年07月27日23:50)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=883539102&owner_id=4857509

 

 

 

 

 

ここは大好きな場所、猿田彦神社
皇大神宮の内宮アマテラスより、このサルタヒコに太陽のような絶大なるパワーを感じ、スピリチュアルな霊感の力がまったくない私が真っ白に輝く火の鳥鳳凰?)の姿を見た場所でもあります。

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今回それを知らずして、三男が飾ってあった御輿の天辺に鳳凰を見つけて、「ここは鳥がカミさまだね」といったのでビックリ!
もうドキドキしちゃいました~~~^^;

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対となるサルメ神社はその配偶者でもあるアメノウズメ。
アマテラスを岩戸から誘い出すために踊ったため、芸能のカミとして人気のある神社です。

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みちひらきのサルタヒコに芸能のアメノウズメのおひらきまつり。
そんなコミュも作ったくらいです...
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1402545

昨年からひもろぎの時期にも来れるようになったので、新たな発見もありました。


その存在感からしてご神木なのでしょうか。
拝殿の横にある巨木がとてもいい感じなんです。
しめ縄がしてないのが不思議なくらいですが、その代わりいつもハグしたり頭を撫でてもらいます。
会いたくなる巨木のランキングでは、常に上位をキープしてます!

八角形の古殿地跡の碑。
白木の大木の鳥居も八角形。
そこら中に八角形が隠されている...


おひらきまつりに通いはじめて以来毎年訪れているのに、何度来ても新鮮な気持ちになれます!


...

追記(2008/7/28)

日記を振り返ってリンクしてみました。
近所でも旅先でもあちこちでサルタヒコさんに出会い続けています。
以下、最近の日記から古い順に...

琵琶湖の白髭神社
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=756895522&owner_id=4857509
多治見の本土神社
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=712625803&owner_id=4857509
金華山猿田彦岩戸神社
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=674157490&owner_id=4857509
一宮の尾張猿田彦
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=673345972&owner_id=4857509


そして、伊勢のサルタヒコも振り返ってみると...

昨年のおひらきまつり
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=596067738&owner_id=4857509
昨年のひもろぎの里
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=515353401&owner_id=4857509


なんと、鳳凰のことは以下の日記に書いてありました。
三男はこのとき違うインスピレーションを受けていたんだぁ~
おもしろすぎ~~~!!!

一昨年(2006年)のおひらきまつり
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=240203235&owner_id=4857509
https://fuhgetsu.hatenablog.com/entry/2006/10/10/143600

 


...

那智の火祭にみる「1のまわりの12」 〜水無月満月の太陽信仰

[mixi] 日記(2008年07月15日19:22)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=870567843&owner_id=4857509

musublog(2008年07月15日19:22)
http://www.musublog.jp/blog/fuhgetsu/?entry_id=14461

 

 

 

 

 

昨日は「那智の火祭り」の日でした。
猛暑の中執り行われるこの火祭りに、いつか一度は行ってみたいと思ってます。

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熊野の神々が年に1度、12体の扇神輿に乗って那智の滝に里帰りする祭り。
毎年7月14日に行われる熊野那智大社例大祭で、正式には「扇会式例祭」とか「扇祭」といいます。
火祭りの名の通り、派手なイメージとして大松明の燃え盛る炎にばかりに目が行きますが、実はこの祭の主体は松明ではなく、熊野十二所権現に見立てた十二柱の「扇神輿」です。

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もともとは旧暦の六月十四日と十八日日に行われていました。
つまり満月前後のお祭ということです。
六月十四日とは、今年でいうとちょうど明日の7月16日です...

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かつては六月朔日に全ての社僧が滝本に集まり、さらに十二所権現で神役を務め、十四日に12本の大扇を12の御神体に表し、未の刻に神扇などが滝本宮を巡って田楽を行なったそうです。
そして酉の刻に伏拝した後、神扇を立て列ねて献灯し、社僧は十二所権現に集まり、神扇が十二所権現に着くと社僧は大きな松明を持って迎え、田植の儀式や田楽が続く...

扇神輿は、その全体の形が飛瀧(那智大滝の御神号)を模しており、扇は「招ぐ」に通じ、神霊の招ぎ代です。
また扇は幸を招き、邪を払うものでもあります。
頂上に造化三神の御神徳をあらわす「光」を載き、八面の神鏡は幸魂・奇魂・和魂・荒魂の四魂の体用を兼ねて、神威八紘に照鑑するしるしです。

神輿の12体は12ヶ月、すなわち1年をあらわしています。
扇は1体に30面、下部にも2本の半開きの扇を附けますが、これはそれぞれ1ヶ月の日数と月の上弦下弦をあらわすものです。
また使用の竹釘は1年の日数と同じ360本を一体に用いる古例です。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=33114354&comm_id=1110372


このように通説では単に暦をあらわしているといわれていますが、金地に朱の日の丸を描いた扇を組み合わせ、細長い框に派手な赤緞子を張った幅1m長さ6m程の神輿が12体。
見るからに特異なこの表現は、もっと違う何かを物語っているように感じます。

例えばマヤ暦や太陽信仰に関わる古代の聖数に「12」と「13」がよくでてきます。
那智の滝で行われる水と火の祭りは、熊野の太陽信仰と三本足の烏に関わる何かを秘めている気がします...


熊野の三本足の烏は「八咫烏」と呼ばれています。
太陽信仰にはこの「8」とか「9」も聖数としてでてきます。

漢数字で「八」は無限を意味する末広がり。
アラビア数字の「8」も、メビウスの輪の無限を意味する。
漢字も「ハ」の字にする以前に、アラビア数字が「∞」の形にする以前に、どちらも数字の持つ意味なり役割が先にあったからこそ、それを意識した象形デザインが成り立っていると思います。
というわけで、後々いろんな要素の意味づけが加わり、8と9の聖数がどう展開したのかも気になりますが、どこがルーツでどのように伝播したかだけでなく、宇宙樹のように普遍的な古代の宇宙観に端を発しているのではと感じています。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=32774480&comm_id=1581098


宇宙の根元は陰陽の2極にはじまり、三角形や五角形、六角形といった幾何学的な面から立体的な空間を生じさせます。
フラクタルやドームハウス、宇宙船地球号でも有名なバックミンスター・フラー氏は、宇宙を構成する最小単位を発見し、それをベクトル平衡体と名付けました。
その構成要素はさらに正四面体に分割することができます。
もうこれ以上分解すると存在すらなくなる宇宙の原理です。
正四面体の頂点は4つ。
それぞれの頂点と対面する面の中心には、外に向かって拡散する力と中に向かって収縮する力が働きます。
陰陽のエネルギーが加わり8つの方向性があることがわかります。
その中心を加えれば9にもなります。
このことは「1のまわりの8」というシステムとして、以下の日記で触れてます。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=731180564&owner_id=4857509

今度は頂点でなく、辺の数に注目すると6辺あることがわかります。
これにも陰陽が加わり12となって、中心の1を加えれば13という数字がでてきます。
このことは、暦に関わる「1のまわりの12」というシステムを展開しながら書きました。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=808137336&owner_id=4857509

縄文人は高度な文明も文字も宗教すら持たなかったかもしれませんが、このことをちゃんと知っていたのです。
つまり、古代人はこの宇宙原理を理解していました。
巨木の6本柱の三内丸山も、世界中の古代遺跡にもしっかり応用されてます...


もうひとつヒントとなりそうなのが扇です。
ちょっとメモとして加えると、扇子は日本独自の文化です。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=744125614&owner_id=4857509

話は戻って、この熊野の「扇祭」とどこか似た感じのお祭りが、地元の木曽川の雨乞い踊りにもあらわれています。
このことも「1のまわりの12」というシステムの続編として、いつかまとめようと思っています...




...

 

 

 

 

 

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1のまわりの12 〜縄文暦と二十四節気の関係

[mixi] 日記(2008年05月16日15:22)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=808137336&owner_id=4857509

musublog(2008年05月16日15:22)
http://www.musublog.jp/blog/fuhgetsu/?entry_id=14459

 

 

 

 


1のまわりの12という、縄文数理システムを用いた2つのお祭りをメモ代わりに書いておきます。

前回の日記「縄文カレンダーは四方と中心なり」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=806148554&owner_id=4857509

夏至著さんのコメントより

> 『上記』ウエツフミでは東方に13の宮殿を配置して、太陽の昇る方位の基準にします。
>
> ですが東方の13の宮殿は、実祭にあるのではなく架空の存在なのです。
>
> 観測点から観て、13個の目印のような機能を持つものがあればよかったのでしょうか?
>
> その延長線上に、架空の13個の宮殿が地平線上に存在することになります。
>
> 『上記』での夏至にあたるサナエの月には、太陽は最も北よりの十三番目の宮殿から出現します。
>
> 反対に『冬至』の太陽は、最も南よりの1番と2番の方位から出現します。


この13の宮殿の「13」は、直感で「1のまわりの12」だと感じました。


岐阜の笠松に残る雨乞い神事。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=538469939&owner_id=4857509

中心に紙垂のついた柱を置いて、12本の五色で飾られた竹竿を背負った踊り手が、くるくる旋回しながら柱の周りを踊ります。
これこそ「1のまわりの12」を用いた、古代の太陽祭祀の名残りと思われます。

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そして、ウエツフミのいう13の宮殿のシステムとはもしかしたら...

> 『上記』での夏至にあたるサナエの月には、太陽は最も北よりの十三番目の宮殿から出現します。

実は、この話を聞いてすぐにピンと来たのがこちらです。
昨年訪れた、岐阜の山中にある朝鳥神社の冬至祭。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=661782610&owner_id=4857509

そこで出会った古老から詳しく説明を聞いて、古代の方位と太陽観測の立体装置をしっかり見てきました。
磐境(イワサカ)は5つあり、それぞれの季節点の太陽光が差し込む仕掛けとなってます。
その手前にある2本の白木には注連縄がかけられ、やはり5本の紙垂がたれています。
これが鳥居の原型といわれ、もともとは太陽をねらう照準器の役割だといってました。

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冬至の日の出は鳥居の一番右(南側)を通過してイワサカの一番左(北側)にあたります。
夏至はそのまったくその対極となり、1年でこの幅を1往復するからまさに「一陽来復」ですね。

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ちなみに英語で冬至は「Winter Solstice」、夏至は「summer solstice」。
この「Solstice」とは、ラテン語で「太陽が止まる日」という意味です。

秋分は5個のイワサカの真ん中で、1年に2回太陽があたります。
これで計3個です。

その中間にも1個づづあり、合計5つのイワサカはこんな感じで陰陽のバランスを立体的に表現してました。



 冬至立春春分立夏夏至
 ↑●   ●   ●   ●   ●↓
 冬至立冬秋分立秋夏至

    ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑
     太  陽  光




上記を応用して、●と●の間を3等分すると...


冬至小寒大寒立春→雨水→啓蟄春分清明穀雨立夏小満芒種夏至
  ↑●   ○   ○   ●   ○   ○   ●   ○   ○   ●   ○   ○   ●↓
冬至←大雪←小雪立冬霜降寒露秋分←白露←処暑立秋大暑小暑夏至


5個の配列を13個にすることで、なんと二十四節気の陰陽相関図ができあがりました!!!


縄文数理システム1のまわりの12。
手はじめに、以前は「1のまわりの8」についてまとめました。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=731180564&owner_id=4857509

古代に存在した世界共通の宇宙哲学とバックミンスター・フラー
またの機会にもう一度、「1のまわりの12」についてまとめたいと思います。


そして、もうそろそろですね。
縄文族にとって一気にモチベーションが高まる季節の到来...

▼6/21(土) 縄文暦【夏至】 ~the summer solstice 2008
 http://mixi.jp/view_event.pl?id=31121033&comm_id=1581098





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九鬼家の家紋=1のまわりの8

[mixi] 日記(2008年03月01日19:26)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=731180564&owner_id=4857509

musublog(2008年03月01日19:26)
http://www.musublog.jp/blog/fuhgetsu/?entry_id=14457

 

 

 

 


2008年3月1日(土)/睦月廿四夜×KIN12

答志島の日記からのキーワード。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=730188318&owner_id=4857509
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=730390970&owner_id=4857509

例えば節分の「鬼」。
そして九鬼と八幡から、古代の聖数「九」と「八」。

まずは、九つの鬼の由来から...


九鬼は与えられた呼び名として「くき」と読まされている。
熊野発祥の九鬼氏は、本来は「鬼」の文字でなく、上にある「ノ」の点がない。
ツノがないから鬼ではなく神とされ「くかみ」と読んでいました。
熊野本宮大社の神官の子孫で、紀伊の名族として知られ、戦国時代の九鬼水軍など地元では英雄的存在。
鬼が古来は神に通じていたひとつの例です。


 つまり「九鬼=九つの神」


あの大本とも関係していたという九鬼家。
その九鬼家の家紋は次のような「九曜紋」を使っていたのです。

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      中央の星を八星が囲む九曜紋

 


陰陽道には「九曜」もあれば「九星」もあり。
よくわからないけど、この二つは関係してそうでまったく別物のようです。
その九星は「八卦」から来ている。

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海女が身につける魔除け「セーマンドーマン」も陰陽道からきている。
セーマンは「五芒星」ですが、ドーマンは縦4本横3本の「九字」を切ります。

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これらは古代人が理解していた宇宙エネルギーの原理を、後付でいろいろ解釈されていっただけで、もともとは同じだったんじゃないかと思います。
陰陽道につながるセーマンドーマンも、九鬼家の九曜紋も、古代シュメールとつながっているとか...

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             十六花弁菊花紋




宇宙が採用しているのと同じ数理システムを理解していたのがバックミンスター・フラー氏です。
フラー哲学は縄文の精神世界を解く手がかりとなるのです。
縄文の哲学ともつながって、今でも日本の伝統文化の中にわずかに残されていることがわかってきます。
そのことをマイミクの事務局長さんから長いことかかって教わり、伝統芸能の見方も少しずつ変わってきました。

私も一時期、いろんな場面でフラーに行き着きました。
宇宙船地球号
直感で大好きなドームハウス。
ダイマクションカーにダイマクション地図。
子供の玩具にもしていたテンセグリティー...


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その難解とされるフラーの考え方は数多くの本となっています。
私も今までは写真や図や模型を見たりするくらいで、つっこんでその考え方を読む気にはなれませんでした。

でも、実は難解にしてるのが現代の数理システムの方だったのです。
フラーの考えは目に見えるようにモデル化できる点で、だれもが理解できる明快さがあります。
まだまだ私ではうまく説明しきれませんが、以下、事務局長さんから抜粋してまとめてみると...


 宇宙の最小構造単位は「正四面体」に由来するというもの。
 正四面体の思考体系は、宇宙原理ともいわれる「内」と「外」という対立した概念。
 内に収束する力「陰」と外に発散する力「陽」のバランス。
 この正四面体には「4つの次元」が存在し、そこに陰陽の方向性を加えると「8つの方向性」が存在します。
 この8つの方向性に中心核を加えると、「9つの聖なるポイント」が生まれます。


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 古代文明において最も基本となるのが「3」に基づいた象徴。
 さらに頻出するのが、「1のまわりの4」という象徴。
 そして、重要なのが「1のまわりの12」という象徴。
 上記の象徴は、すべて「正四面体」から派生するものだ、ということです。

 例えば「1のまわりの4」という象徴は、密教曼荼羅図に見られます。


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東アジアでは、宇宙の根源(太極)から、陰陽の2極性が生じ、「1(中心核)」のまわりの「4次元性」という象徴性から「陰陽五行」、そして、4次元性から派生する8つの陰陽力を「八卦」として、より抽象的にとらえました。





1938年、フラーが43才のとき、初めての本を出版します。
アインシュタインのことを本人の承諾の上書いたのですが、その題名が『月への九つの鎖』といって、とても象徴的なんです。

月が地球と目に見えない九つの鎖でつながっている。
つまり引っ張る力と圧縮する力によって均衡を保たれる構造。
テンセグリティーの糸でつながっている...



そのアインシュタインはご存知のように日本と深い縁があります。
原爆開発のきっかけを作ったのもアインシュタイン自身。
しかし、マンハッタン計画にも関係なく、原爆が完成した時にも日本に投下することに反対しました。
そして1922年に日本を訪問し、その直感力で日本の文化の本質をとらえ、次のような「メッセージ」を送りました。

 世界の未来は 進歩するだけ進歩し

 最後に戦いに疲れるときが来ます

 そのとき人類は世界を真の平和へと導いてくれる者を探し出さなければなりません

 世界の文明は日本へ戻らなければなりません

 私たちは神に感謝します

 私たちに日本という尊い国を作っておいてくれたことを






ところで、アインシュタインの宗教観は古代日本のそれととても近いともいわれています。
ホツマツタヱの太占(ふとまに)図は、実は「原子の法則性」を表しているとも。

中心の「う」が原子核、上下の電子は「あ」が水素で「わ」がヘリウムを表す...

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彼もまた宇宙原理に気づき、それを平和のために利用しようとしていたのです。

古代の縄文と同じように...

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サルタヒコとツクヨミの伊勢路巡礼 ~居待月

[mixi] 日記(2006年10月10日14:36)
https://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=4857509&id=240203235

 

 

 

 

 

2006年10月9日(祝)/旧8月18日/居待月/寒露

昨日(10/9)、伊勢路へ1年振りに訪れました。
猿田彦神社に佐瑠女神社、月讀宮月夜見宮...
そして念願のお月見まで出来ました!

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伊勢にある猿田彦神社では、毎年この時期に「おひらきまつり」を開催していましたので、ここ何年か通っていましたが、残念なことに去年で終わってしまいました。
このお祭は伝統行事ではなく、新たな時代(21世紀)の「ひらかれ」を祝うため2001年から5年間続いたお祭でした。
祭神がサルタヒコと、アメノウズメであるので、全国の伝統芸能民族音楽を集めたステージなどもありました。
今年からは「おひらきまつり」は休憩し、10月9日(祝)に「奉納演奏」のみの開催だそうです...

ということで12時から行われる奉納演奏に、無事に見に行くことが出来ました!
今までおひらきまつりの2日目、日曜日のお昼から拝殿前で行なわれていた奉納演奏とスタイルは一緒です。
お客さんも平年と同じくらい詰め掛けました!

▼おひらきまつり2006
http://mixi.jp/view_event.pl?id=11116695&comm_id=1402545

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3才児の子供は神社に入るなり、「ここは龍の神様だね!」と言いましたが、演奏中に私の中に見えたのは、なんと鳳凰の姿でした。
つい先日、秋の空に現れた雲が、そのお姿とそっくりだったことに気が付きました...

▼日記
空からのメッセージ ~ 水始涸(みずはじめてかるる)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=235945120&owner_id=4857509

▼フォトアルバム
空からのメッセージ
http://mixi.jp/view_album.pl?id=792477&owner_id=4857509


そしてこちらは猿田彦神社境内社、佐瑠女神社(さるめじんじゃ)。

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続いて昼メシがてら移動して、内宮別宮の『月讀宮』に行きました。
境内4社での参拝は、「月読宮」→「月読荒御魂宮」→「伊佐奈岐宮」→「伊佐奈彌宮」の順で、ちゃんと出来ましたよっ(^^)V

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ここからはカミさんのリクエスト、おかげ横丁
美味しいもん食い歩いて、民芸品買って...

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お疲れさん、お待たせしました。
やっと子供たちが開放され、五十鈴川で川遊び!
魚獲りする人...
石投げする人...
宝石採りする人...

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日が暮れてから、外宮別宮の『月夜見宮』へ参拝。

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夜メシは、伊勢駅近くの伊勢うどんの「ますや」さんへ。
うどんも旨かったけど、甘味どころとしても有名なのかな?
きな粉ハチミツ白玉アイスは絶品でした!

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食後、ちょうど月が昇る時間...
月見のために、再び猿田彦神社へ戻ってみました。

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そして最後にもう一ヶ所、高速インター帰りついでに月讀宮からも月見をして、伊勢を後にしました...

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(更新:2006/10/12)