月音(つきのね)∞風音(カヂヌウトゥ)

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山窩はわからないけど山歌はいたんだよ、本当に。

 

期待を裏切るような面白さもなければ、実態とかけ離れた大袈裟な表現で脚色されたサンカ像を押し付けることなく、ちょうどいい、わたしの想像する山歌に近かったので、笹谷監督がこんな美しい映像にしてくれて嬉しかった。
もちろん、創作だけど、ドキュメンタリー映画と呼んでもいいレベルかもしれない。

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映画だから変な期待をしがちだけど、こうしたデリケートなテーマを扱う場合に限って、期待は禁物なのだ。
海外の映画に出てくる変な日本人像みたいに、外側の人間が想像力豊かにイメージすると、当事者から見たらとんでもない誤解や差別による屈辱を感じることにもなりかねない。
逆もしかり。
あまりにも美化しすぎて、実像とまったくかけ離れた描き方をすることで誤解したイメージが定着してしまう。
まさに、山窩を売り物にするかのように、かつての研究者や小説家が良くも悪くも様々なイメージを膨らませすぎたせいで、実像がぼやけた虚像の塊のような存在に成り果ててしまったからだ。

山窩がいたとかいないとか、もう本当にそんな議論などどうでもいい。
そういうサンカと呼ばれるような山の民がいたことは特別なことでなく、逆に居なかったことを証明する方が遥かに難しいのだから。
それを、差別的な侮蔑語として名付けられた山窩とは書かず、山歌としたこの映画タイトルが秀悦すぎる。
籠を編む女の子が唄うシーンが、とてもよかった。
そのシーンがもっとも山窩をイメージさせるピークなくらいで、映画の見どころとしてのサービスカットなのかな、と思ったりして。
他にも地味だけど、いいシーンがいっぱいあった。
特別ではない、日常の中のささいな、それでいて贅沢で特別な時間が連続するような暮らしをしているシーンが、わたしがこの歳になってから山に入って感じている感覚ととてもよく似ている。
あの巨木のシーンもよかった。
望んでいたように虫けらのように死んで、土葬されて土に還るばば様とか。

わたしは少年時代から成人するまで、金華山の麓で育ち、まだ両親がそこに住んでるけど、金華山こそが偉大なる母のような存在だと感じてる。
父もこの山を愛し、死んだら金華山に散骨して欲しいといっている。
母方の故郷、白鳥六ノ里も、白尾山の麓の集落で、里と山の暮らしも少しはイメージできる。
昔から山には、黄泉平坂や野辺山や姨捨山の考えがあるように、人が死んだら行くところだった。
それはただの墓場ではなく、森には新しく生まれ変わる再生のエネルギーを秘めているから。
古墳やエジプトのピラミッドの時代は、人工の山をつくり同じエネルギーを得ようとした。

そういう山々に暮らす山歌が、豊かな森の秩序を守ってきた。
何も所有しないという究極の暮らしは、こちら側から見たら貧しい生活でも、所有しない代わりに、山という共有財産から豊かな土地と食料を必要なときに必要なだけ手に入れ、様々な生きる術を持って、芸能をしたり、職人技で籠や箕や竹細工などをつくって売るのが生業となり、里人とはお互い必要な存在として共存共栄してきた人たち。
それが、映画の舞台となってる昭和40年代にぱたっと消えた。
世の中が高度経済成長で無機質となり、山がただ同然の扱いで、豊かさの勘違いをして植林するかゴルフ場として売るか、という貧しい価値となった瞬間、すでに限界集落とか廃村レベルの存在だった最後の山歌の人たちの命までが、一瞬にして消えてしまったのだろう。

自然界は、優性遺伝などしないし、弱肉強食というのも間違ってる。
山歌は、自然に一番近いからこそ自然をよく知り尽くし、謙虚に暮らしていただけの、時代の弱者。
西洋は産業革命で近代化し、明治以降の日本もまた、同じ道を選んだときからこうなる運命だった。
戦争の絶えない時代。
原発事故して、コロナ騒動まで起きて。
今、この映画が、ミニシアターだけど映画館でロードショーされることはとても大きな意味がある。
なんでもっと早く、なんでもっとたくさんこういう映画が今まで無かったのかが不思議なくらいだけど。
誰かが先にやらないといけないから、それが偶々、今だったというだけのこと。
そんな笹谷監督に、ありがとうをいいたい。