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#タルコフスキー の #ノスタルジア を4K修復版で観てきました

やっとこれで2回目。
前回は3年前のシネマテークだったけど、その後ミニシアターとしてお役目を終え現在、新たにナゴヤキネマ・ノイとして再建中。


今回は、パルコの中にあるセンチュリーシネマにて。


タルコフスキーは高校か学生時代に惑星ソラリスを観て、わけがわからず、だけど衝撃的で、美しく、心の奥深くに突き刺さる何物かと対峙させられる。
その後何度も何度も観るはめとなり、スルメのような鑑賞方法には慣れてるけど、この監督の作品にはどこかに確実にヒットするところがあって、大好きな映画監督なのだ。
なのに、他の作品にまで手が出せず、ここ数年でリバイバル上映されたのをきっかけにノスタルジアを観たわけだけど。
当然、まったくわけがわからなかった。
印象的なシーンは記憶され、心に残りやすいけど、そこじゃない。
だけど1回目ではただそれだけ。
観光地でいえば、ただ行っただけの状態だ。


だから冒頭から、あれ?これ観たことないシーンばかりだけど、やっぱり勘違いで今回が初なのか、よほど記憶力のない頭なのか疑った。
でも、中盤から徐々に思い出してきた。
それでちょっと余裕が出て、映画の深部へ入り込もうと、雑念を消してただ観る行為に集中してみた。
4K修復版のパンフが売ってたけど、詳しい内容はどうでもいいので買わないでおく。
地名もわからず、撮影地や映画の舞台が何処なのか、登場人物の名前もはっきり覚えれないうちに映画は終わった。
そんな曖昧な記憶でも重要なのは、自分は何を感じたか、だ。
だからこのあと書くのは曖昧な記憶による印象であって、もし間違えててもそこは各自修正してください。


主人公は詩人のロシア人男性。
霧がかった景色の、イタリアの何処か田舎にある温泉街。
そこにモスクワから来たロシア人が取材のため、通訳のイタリア人女性と一緒に訪れる。
旅のはじまりは、古い教会なのかマリア信仰の宗教施設。
滞在ホテルと野外温泉が舞台の中心となり、ときどき故郷の霧がかった風景の中で家族が妙な表情で佇むシーンがクロスする。
土地で出会った重要人物が都会のローマに行って、街頭演説したまま焼身自殺するシーンは衝撃的なのに、雑踏の見物人はみな無慈悲なところが残酷すぎて。
エンディングの文字スーパーに母に捧ぐとあるので、ソ連を追い出された監督がイタリアでやっと映画撮影が出来、理不尽な世界や哀愁をひしひしと感じるストーリーではあるが。
それは表層的に誰もがわかる設定やシチュエーションであって、そうした背景を通して全体には一貫した監督のメッセージが浸透しているのが、どこかに確実に伝わってくる。


そのひとつには、霧がかる風景がモスクワに似てるとか、古代の自然崇拝に近い廃墟のような宗教施設が暗くジメジメしてたり、やたら雨が降ったり、最後はボタボタ落ちる豪雪の雪に変わる。
これはそういう土地の描写でもあるだろうけど、これだけ徹底的にやってるので相当意味がある。
一度でも晴れて、太陽の日が射すシーンは皆無なのだ。
水に、そして、闇と火。
薄暗いシーンの連続で、闇が圧倒的に多い中で、蝋燭の火が風に靡いて弱々しいにもかかわらず、とても力強く描かれる。
それは、無残な死を選んだ男が炎に包まれるシーンの強烈な火とは対照的に、慈悲深い救いの光となる。
それは崇高な祈りであり、その命そのものを暗示するかのように。
今回、そういうストーリーの中で気づいたことは、女とか女性性へのリスペクトだった。
母に捧ぐという言葉からも、それはたしかだと思う。
宗教施設で日本の田舎の古い祭りのようなシーンがあり、通訳の女性が興味深く見守る中で大地母神のようなマリアに祈るシーンがあり、そこで唯一男性である神父にきく。
なぜこの祭りは女性ばかりなの?と。
神父は、呆気にとられて答える。
女性は子供を産むからではないかと、しかし男にはわからない、そんなこときかれたことも考えたこともなかった、と。
これがこの映画のひとつのテーマというか、骨になってるなと思った。
男女の考えた方の違いや、矛盾や葛藤といったものが複雑に展開して、無慈悲でありながら物語を豊かにしていく。
主人公は監督の化身だから、そんな一人の男として描き抜かれてるなぁと思った。
というわけで、わからないことだらけの映画だけど、また次はいつ観ることになるのか楽しみだ。

とりあえず次は、ストップメイキングセンス観るぞ!と。